摩訶不思議探偵局〜孤独な針〜 主な登場人物
実相真解(みあい まさと)…【探偵】
実相真実(みあい まさみ)…【探偵】
相上謎事(あいうえ めいじ)…【探偵】
事河謎(ことがわ めい)…【探偵】
江戸川乱歩(えどがわ らんぽ)…【フリージャーナリスト】
溝呂木重三(みぞろぎ じゅうぞう)…【歴史研究家】
三木大介(みき だいすけ)…【学芸員】
ハル…【江戸時代の和算家】
マスク…【怪盗】
アシスト…【マスクの助手】


孤独な針〜真相編

 午後10時。
 予告した時刻ちょうどに、マスクは展示室内に立っていた。闇夜に目立ちにくい紺色のライダースーツと長い黒髪。窓もなく、非常灯しか付いていない展示室の中では、自分の姿すら見失いそうだ。
〔誰も出て来ない……〕
 人の気配はするのだが、まだ出てくる様子がない。どういうつもりだろう。まあ良い。昼間にアシストが盗み出した鍵を使って、展示品をしまうガラスケースを開ける。
 マスクがガラスケースから取り出したのは。

 ハルが遺した暗号文だった。

〔ま、正確に言うとこれは、ハルの財宝そのものじゃないんだけどね〕
 暗闇でも見える暗視スコープ越しに、額縁に入った暗号文を見つめる。
 確かにこれは、ハルの暗号文が示す財宝ではない。だが、それに近いものだ。そしてこれには、歴史的な価値がある。
〔さて、誰も出てこないのなら、犯行声明置いてとっとと逃げましょう〕
 ライダースーツのポケットから、名刺サイズのカードを取り出す。『ハルの遺した財宝、確かに頂いた。 怪盗マスク』ガラスケースの中に犯行声明を置いた、ちょうどそのとき。
 パシャリ。
 シャッター音とともに、フラッシュが瞬いた。
「!」
 続けて天井の照明が一斉に灯される。マスクは視界が真っ白に覆われ、慌てて暗視スコープを取った。
「脅かさないでくれる?」
 まぶしさに目を細めながら、マスクが言った。視線を向けるのは、先ほどから人の気配がしていた展示室の出口の方。そこから、カジュアルな白いYシャツに、青いネクタイを緩く締めた少年が現れた。
「別に、脅かすつもりではなかったんですけどね」
 自分の目くらましに、自分でやられたらしい。目を細めている。
「ちなみに、写真を撮ったのは私」
 真解の後ろに、4人の人間が立っていた。そのうち3人は中学生。残り1人、革ジャンを着た女がデジカメ片手に立っていた。さらにもう一枚、パシャリと撮る。
「マスクの素顔ゲット♪」
「ふん」マスクは左腕に額縁を抱え、右手で前髪を掻き揚げた。「これが素顔だって、どうして言い切れるの?」
「変装する理由がないじゃない」
「あなた達がいることは、アシストから聞いているのよ? 変装するに決まってるじゃない」
「ウソね」
 江戸川が一歩前に進み出る。
「アシストは警察に捕まった。あなたに連絡する余裕はなかったはずよ」
「あら。じゃあどうして私は、こんなに易々ここに入って来れたのかしら?」
「……まさか」江戸川が一歩退く。「警察に変装して逃げ出したとでも言うの…!?」
 マスクは小さく笑い、「プランBよ」と意味不明な言葉を呟いた。マスクはそのまま、視線を江戸川から真解に移す。
「それにしても、よくわかったわね。暗号文が示す財宝が、暗号文そのものだ、なんて」
「ええ……正確に言うと、ちょっと違うようですが」
 真解はニヤリ、と笑って言った。
「ハルの遺した財宝……それは、微分と積分です」

「暗号文のナゾが解けた者は、ハルの財宝が手に入る。では、その暗号文のナゾとは何か? それはもちろん、そこに出てくる針の正体です」
 真解はマスクから視線を逸らさずに話す。マスクも、真解から視線を逸らさなかった。だが、注意は四方に向けているようだ。仮にいま後ろから飛び掛っても、するりと避けられるに違いない。
「言うまでもなく、そんな妖怪が実在するわけがありません。つまり、その針は何かの比喩なんです。ではなんの比喩なのか」
 3時間前、溝呂木の家で暗号文を読み返したとき、真解はデジャヴを感じた。「どこかで聞いたことがある」と。しかし、博物館で読んだときはデジャヴを感じなかった。つまり、博物館から溝呂木の家に帰るまでの間に、暗号文に似た話を聞いたのだ。その間に聞いた話と言えば、真実の講義をおいて他にない。
「それが、微分と積分ってこと?」
 マスクが聞く。真解は「ええ」と頷いた。
「微分と言うのは、ごく小さな変化を調べるものだそうです。暗号文の中でも、『私』は針を本に突き刺して、針のごく小さな変化を調べています。また積分は、図形を細かく切り分けてその面積を足し合わせるものだそうです。暗号文の中で『私』が鞠を落とすと、細かい破片が飛び散りました。つまり『私』は、鞠を細かい破片に分けたんです」
 全て真実が話したことだ。真解の隣で、真実は期待に満ちた眼差しを真解に向けた。褒めて欲しいらしい。しかしマスクしか見ていない真解は、それに気付かなかった。
「少しずつ変化する針と、それを積み重ねて出来た鞠。これはそれぞれ微分と積分を表し、しかもこの2つになんらかの関連があることを示唆している」
 ところで、と真解は強調して言った。
「和算に微分はなかった。微分のような概念はあったものの、はっきりとした形は成していなかったし、それを積分と結び付けてもいなかった。しかしハルはそれを成し遂げた。微分を発見し、積分と結びつけた。……これは、数学史に残る発見。その証拠となるその暗号文には、歴史的な価値がある」
 溝呂木や三木がハルの財宝を発見できなかった理由も説明できる。彼らは数学が得意ではなかった。当然、微分と積分の概念も知らなかった。だから、暗号文の意味を読み解けなかった。
 暗号文が200年間解かれなかった理由も、そこにあるのだろう。暗号文を目にするのは、歴史家だ。しかし歴史家は数学に詳しくない人間が大半である。一方、数学に詳しい人間が、この暗号文に触れる機会があるとは思えない。
 森羅万象あらゆる知識を追い求めるマスクだからこそ、ハルの遺した財宝に辿り着けたのだ。
「その通り」
 とマスクは微笑んだ。さり気なく、暗号文の入った額縁を、自分の持っていたカバンに入れる。
「いくら私でも、微分と積分を盗むなんて出来ない。でも、この暗号文には魅力がある。女性が社会的に弱い立場にあった当時、たった16歳の女の子が、独力で微分と積分にまで辿り着いた。アイザック・ニュートンでさえ、20歳を過ぎてから発見したと言うのに」
 カバンのファスナーを締め、小脇に抱える。
〔隙を作りたかったけど……〕真解は思った。〔無理だな!〕
「謎事!」
「おう!」
 ダッと謎事が駆け出した。同時に、マスクの背後から兜と猫山を含めた5〜6人の警察が飛び出す。
 男達に捕まりそうになった瞬間、マスクは壁に向かって跳んだ。ガラスケースの向こうの壁を蹴り、体をさらに上へ。天井の穴に手をかける。換気口だ。ひとがぎりぎりで通れそうな細い換気口の蓋が外されていて、マスクはそこに入り込んだ。
「話してる間に隙を作ろうとしたのかしら? 残念ね。暗号文は頂くわ」
 すぐ下では、男達が山積みになっていた。くんずほぐれつしながら、警官達が慌てて立ち上がる。
 勝ち誇った笑みを浮かべるマスクを見上げながら、真解は小さくため息をついた。そして、勝ち誇ったようにニヤリと笑う。
「無駄ですよ。その暗号文は偽物です」
 だがマスクは、表情ひとつ変えずに答えた。
「ウソね。私は知っているわ。あなた達は、午後6時の時点ではまだ暗号が解けていなかった。その直後に解けたとしても、残り4時間。たった4時間でこんなに精巧な偽物を作ることは不可能よ」
「自分たちは、逮捕された直後に警察に変装するくせに」
「私達には出来るわ。でも、あなた達には不可能よ。それにそもそも、ガラスケースを開ける鍵がないじゃない」
 マスクの言葉に、真解はポケットから鍵を取り出した。それを高々と上げて、マスクに見せる。
「スペアキーです」
「……どのみち、偽物は存在しない。ウソつきは泥棒の始まりよ?」
 泥棒に言われると、説得力があるやらないやら。
 真解が複雑な思いをめぐらす間に、マスクは換気口の中に体を隠した。ごそごそ、と遠ざかる音がする。
「追え! 逃がすな!」
 兜が叫んだ。中年の刑事たちが外へ飛び出す。若い刑事が2人残り、なんとか換気口に入ろうと壁をよじ登ろうとした。だが壁には取っ掛かりがなく、不可能だ。マスクのように跳ぶことも試したが、壁に激突して終わった。
「逃げられたか」
 真解は呟いた。出来れば捕まえたかったが、暗号文は守れた。それで良しとしよう。
「溝呂木さん」展示室の出口に向かって、真解が言った。「残念ながらマスクは捕らえ損ねましたが、暗号文は守れたようですよ」
 展示室に入ってきた溝呂木。
 その手には、大切そうに暗号文が抱えられていた。

「マスクはなんで、あんな勘違いをしたんだろう?」
 一件が落着し、真解たちは帰途に着いた。溝呂木がワゴン車で駅まで送ってくれると言うので、ありがたく乗せてもらった。
「暗号文の複製を今日作ったなんて、一言も言ってないのに」
「マスクも、意外におっちょこちょいだよねー」
 楽しそうに真実。溝呂木もご機嫌だった。
「あの暗号文は、儂がもう何年も前に作ったものだからな。せっかく作ったのに、盗まれたのは惜しいが……」
 惜しいと言いつつも、嬉しそうである。マスクに「精巧」と褒められたからかも知れない。
「江戸川さんが見たのも、偽物だったんですね」
「ええ」
 江戸川は、2週間前に溝呂木の家で暗号文を見たと言った。だが、博物館の企画展示は1か月前から行われていたのだ。2週間前に、溝呂木の家に暗号文があるはずがない。つまり、江戸川が見たのは偽物だったのだ。
「マスクは自分が盗んだものが偽物だって、気付くかな?」
 真実がウキウキした声で言った。もし気付いたなら、そのときの衝撃はいかほどか。
「そうだなぁ」と溝呂木。「精巧と言っても、和紙も墨も江戸時代の物ではなく、現代の物を使ったからな。ちゃんと調べれば、すぐに偽物と分かると思う」
 後ろの席で、メイが心配そうに呟いた。
「ですが、もし偽物だと気付いたら、マスクはまた盗みに来るんではないでしょうか?」
「そのときは」溝呂木が少しだけ後ろを振り返る。「また頼みますよ、皆さん」


 次の日の夕方。ネットでニュースを見ていた真実が、「ねぇお兄ちゃん、これ見て!」とパソコンの画面を指差した。
「なんだ?」
 ベッドに横たわっていた真解は、読んでいたマンガを置いて、真実の後ろに立つ。そこには、見覚えのある建物の写真が写っていた。
「これって、昨日の博物館?」
「そう! マスクが盗みに入ったって事が今朝ニュースになって、そのおかげでお客さんがいっぱい来たんだって!」
 確か今日は、企画展示の最終日だったはずだ。記事には、「企画展示の最終日に観覧客の方がたくさん来てくれて、忙しいですが嬉しい悲鳴です。これを機会に、皆さんが和算に興味を持っていただけると嬉しいです」という趣旨の三木の言葉が掲載されていた。ちなみに、記事の執筆者は「江川蘭子」とある。江戸川のペンネームだ。
「上手くやったんだな、江戸川さん……」
 どのくらいの収入になったのだろう。
 2人はしばらく黙って記事を読んでいた。画面を最後までスクローズしたところで、真実が顔を上げて真解を見た。
「そういえばさ、お兄ちゃん」
 なに、と真解は視線で答える。
「ちょっと気になったんだけど、どうしてハルは、わざわざ暗号文で微分と積分を遺したのかな? ストレートに書けば良かったのに」
「……」
 言われてみればそうだ。真解は考えながら、真実の顔を見た。いたずら好きな猫のような目を、じっと見つめる。
「な、なに? そんなに見つめたらキスするよ!」
 真解は視線を逸らした。
「ハルが和算をやることを、周りの人間はあまり歓迎していなかった。たぶん女性が学問をやるということ自体、考えられない時代だったんじゃないかな。よもや、それまで誰も気付かなかったことを発見したなんて言っても、相手にされなかったんじゃないだろうか」
「それで、暗号文を?」
「うん。『いつか、誰かが気付いてくれるに違いない』……たぶん、ハルはそう思ったんだと思う。『この暗号が解けるほどの人間なら、きっと自分の発見を認めてくれる』と信じて」
 そこで真解は、再び真実に視線を戻した。いたずら好きな……いや、数学好きなその目を、じっと見つめる。
「ちょうど、問題を解いた真実が、その解法を語りたがるように。語りたがるのは、認めて欲しいからだろ?」
「…………」
 真実は少しだけ、唇を尖らせた。なんかいま、バカにされた気がする。
「お兄ちゃんだって、人のこと言えないよ」
「? どういう意味だ?」
「だってお兄ちゃん、昨日マスクに向かって、長々と暗号の意味について説明したでしょ? でも、どうしてそんなことしたの?」
 真解は一瞬無言になった。
「……え?」
「だって意味ないじゃん。あのとき、あの場にいた全員が、暗号の意味を知っていた。マスクは自分で解いたし、わたし達は事前にお兄ちゃんから聞いていた。だから、あの場で暗号の意味を説明する必要なんて、どこにもない」
「……」
 確かに。
 確かに、その通りだ。
 真解はゆっくりと、真実から視線を逸らした。
「お兄ちゃんだって、わたしやハルと同じ。『語り好き』なんだよ」
 それが図星だと聡明な真解はすぐに気付いて、でもそれを認めたくなくて。楽しげに言う真実を視界に入れないように、真解はベッドに潜り込んだ。

Finish and Countinue

〜舞台裏〜
まあ、「読者に説明する」と言う重要な意味があったんですがね。と書きながら突っ込んでしまったキグロです。こんにちは。
真解「いきなり下世話な解説をするなよ……」
ちなみに、私も無類の語り好きです。なので、真実やハルの気持ちはよくわかります。
謎事「そうなのか」
でも「語り好き」って普通にしてるとウザがられる存在なので、普段はなるべく無口でいるよう心がけています。
真実「そうなんだ」
だから『摩探』を書いていると、普段溜め込んでいる欲望が暴走して、「余談」を書いたり数学の解説をしたりすることになるわけです。
真解〔なるほど〕

そんなわけで、VSマスク第3弾、お楽しみいただけたでしょうか。VSマスクと言うよりは、VS暗号文な感じになってしまいましたが。
謎事「アシストは変装してたけど、マスクは変装してなかったもんな」
いや、一応変装してたけどね。まあ、「なりすまし」はしてなかったけど。
元はと言えば今回の話、『ハートの奪い合い』を書いている最中に、
「あ、コンゲームやりたいなら、マスクを出せば良いじゃん!」
と気が付いたことがきっかけなのです。
真実「……あんまコンゲームっぽくなってなくない?」
うーん……ボクとしても、「マスクの獲物をどうやって守るか!?」「そもそもマスクはどうやって盗もうとしているのか!?」をメインに考える話を書くつもりでいたんですけど……どうしてこうなった。
謎事「完全に、『マスクの獲物は何か!?』って話になってるな」
まあ、これはこれで頭脳戦なんじゃないかなと、開き直ってみます。「マスクの予告した時間よりも早く暗号を解かねば!」って感じで。
……そうです。今回の話はそもそも、「財宝の在り処が暗号で示されていて、それを時間内に解かないとマスクに財宝が盗まれる」という着想から出発しているのです。
真解「何が言いたいんだ?」
もともとは、和算を入れる予定は皆無だったと言うことです。
謎「予定がなくとも、好きなものには影響されてしまうんですね」
はい。ですから、漫画『Q.E.D.』の「十七」という話に構成が酷似しているのは、全くの偶然です!
真実「あんた、またパクったの?」
偶然だっつの! ……それに、あっちの方が万倍素敵なお話です。
真実「劣化コピーってことね」
なんでだよ!

気を取り直して。
今回の話に和算を使うことを決めてからは、和算の歴史背景などについて、遠藤寛子さんの『算法少女』という小説を参考にさせていただきました。
「依頼編」でメイちゃんが「算法少女ですか」と言っていたのは、謝辞のつもりです。
謎「誰も気付かないような、微妙な謝辞ですね……」
まあ、本編の内容には全くと言っていいほど反映されてないんですがね。
真実「ダメじゃん」
ところでこの『算法少女』、買ってから知ったのですが、結構有名な小説らしいです。
江戸時代に実際に出版された同名の算法書を題材にした歴史小説で、特に数学教育の現場で絶賛されたそうな。
初版が1973年のため文章がやや古臭いですが、セリフも多いし、主人公は13歳の女の子なので、ラノベのような感覚で読めるかと。普通に面白いです。
特に好きなのは、主人公が知り合いの知り合いの和算家に会いに行き、オランダの数学の本を見せてもらうシーン。
一本の数式を見せられ、「これは何だと思いますか?」と問われ、わからないと答えると、
「これはね、円周率を計算する公式ですよ」
「この、たった一行で……」
と驚くシーンに、ちょっと感動した。
NHKの『タイムスクープハンター』と言うドラマも大好きなのですが、こう、現代の我々なら常識として知っていることを、過去の人が一生懸命解き明かそうとしている姿って、感動しませんか??
真解〔……確かに、こいつは語り好きだな〕
ちなみに今回登場した和算家ハルの名前は、『算法少女』の主人公「あき」からとっています。まあ、この「あき」は「章子」の「あき」で、季節の秋とは無関係のようですが。

では、また次回。

作;黄黒真直

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