「あら、いらっしゃい。こちらは日本語英語中国語等言葉の雑学の部屋でございます。 こちらでは、言葉に関する雑学を収集しております。主に日本語ですが、外国語もありますよ」 | |
「え? ここに来れば、呪いの言葉があると聞いた? ………ええ、確かにあります。どうしても、お聞きになられますか?」 |
XmasとX'masの違いは?
キリストの生誕日、クリスマス。英語では【Christmas】と書きます。 さて、このクリスマスですが、ときどき略しますよね? この略すとき、『Xmas』と書かれたものと『X'mas』と書かれたものがあります。 この両者。なにか意味が違うのでしょうか? 辞書で調べてみると、実は何と後者の『X'mas』というのは、誤った表記なのです。 この『X』とは、ギリシア語で“キリスト”を表しており、『Christ』にあたります。 別に、略した言葉ではないので、わざわざ省略を意味する『'』をつける必要はないのです。 そして、『X』の方も、『エックス』ではなく、ギリシャ語の『カイ(キーとも)』。 ギリシャ語のアルファベットの、22番目の文字です。 ですので、厳密に言えば、『Xmas』よりも、『Χmas』の方が正しい事になります(パソコン画面では、違いがわかり難いかも知れませんが。しかも、辞書にも載っていませんし)。 ちなみに、本場アメリカでは、『Χ−mas』と言う表記もなされているようです。 みんさん、間違っても『X'mas』とは書かないように。 これで、アナタの(雑)学力がわかります |
壱、弐、参、さてその次は? 領収書や小切手などで、変造を避けるために1、2、3の数字の代わりに漢字で壱、弐、参と書くことがあります。 これらを大字(又は代字)といって、奈良時代から用いられていました(その証拠に奈良時代の『正税帳』には代字が使われています)。 代字を用いるのは普通3(参)までで、4以上は普通の漢数字で書きます。 ですが、代字はちゃんと4以上にも存在します。 では、どんな漢字で表すのでしょうか? 江戸時代の著名な数学者、吉田光由に『塵劫記(じんこうき)』という算術書があり、その中に大字についての解説があります。 それによると、1は壱、2は弐、3は参と書くとする、とあります。 では、それ以上を見てみましょう。 4は肆(シ)、5は伍(ゴ)、6は陸(ロク)、7は漆(シチ)、8は捌(ハチ)、9は玖(ク)、10は捨(ジュウ)と書く、とあります。 これらのほとんどは音が同じであることからの代用ですが、「弐」と「参」と「伍」には本来それぞれ「2」「3」「5」と言う意味があります。 また、よくこれらを旧漢字と勘違いしている人がいますが、それは間違いです。 ちなみに、100は「陌」や「佰」、千は「阡」や「仟」と表記します(万以上不明。どなたか知っていたら教えてください)。 そして、11は壱拾壱、12は壱拾弐、20は弐拾、123は壱陌弐拾参と表記します。 |
元旦と元日はどう違う? 元旦、元日。どちらも正月の(?)言葉です。 さてこの両者、なにが違うのでしょうか? 元旦の『旦』と言う字は、太陽が地平線(水平線)から昇ってきているところを表しています。 つまり、元旦とは、1月1日の朝のことを意味するのです。 次は元日です。 元日は、元の日…つまり、1月1日を意味します。 1月1日が元日で、元日の朝が、元旦、と言うわけです。 ちなみに、「正月」は「1月」の事を意味します。 |
ベランダとバルコニーは何が違う? バルコニーとベランダ。一見同じような気もしないでもないですが、なにが違うのでしょうか? ロミオとジュリエットが恋を語った華麗なのがバルコニー。洗濯物が干してあるのがベランダ。とまぁ、一応は区別がつきはますが…? 簡単に説明しましょう(というか、難しく説明できない)。 両方とも2階以上の階で、家屋から張り出し、屋外の生活が出来る場を指しています。 そのなかで、屋根のついていないのがバルコニー、ついているのがベランダ、と区別されています。 南ヨーロッパや西南アジアなどでは、きつい太陽光線をさえぎるために、壁の割合に比べて、窓を小さく作ります。 そして、その代わりにバルコニーを設け、必要に応じて日光を浴びるのです。 また、花を置いたり、格子などで飾ったりして楽しんでいます。 バルコニーは、過酷な自然とともに生きるための、工夫からうまれたのです。 日本でベランダが多いのは、雨が多いことと、日光の量にほどよく恵まれていること、などが影響していると思われています。 |
定規とものさし、どう違う? 定規とものさし。どちらも板状の道具です。 学校では数学(算数)や技術家庭科(図画工作=図工)の授業でよく使います。 さて、両者はどこがどう違うのでしょうか? 定規、とは直線や曲線を引くときに用いる器具。 ものさし、とは物の長さを測る道具です。その昔、「測る」ことを「指す(さす/『差す』とも)」と言ったためです。 つまり、両者は形は似ていても、その使用法は全くことなるのです。 目盛りがついている板状の道具は、使い方次第で定規にもものさしにもなります。 ただし、曲線を描いた板状の物は、ものさしとは言わず、定規と言います。 「意義学」と言う学問があるぐらいですから、微妙な使い分けが言葉の世界では重要になってくるのです。 |
昔の横書きは、何故右から? 昔の写真や、絵などを見ると、横書きの文字はみな右から書かれています。 これは、一体何故でしょうか? 実は、ちゃんとした理由があるのです。 実はあれは「横書き」ではなく、「縦書き」なのです。 そもそも、昔は「横書き」と言う感覚は無く、全て縦書きなのです。 縦書きは行が変わるとき、右から左に向かって書きます。 ですので、「縦に一文字しか書けない」状態で書く場合、右から左に向かって一文字ずつ「縦書き」するため、横書きで書かれているように見えるのです。 これが、昔の「横書き」が右から書かれている理由です。 |
SOSの由来は? SOSと言えば、万国共通の救助を求める遭難信号です。 昔の超人気歌手までもが「SOS、SOS」と言う歌を歌っています(関係ない?)。 さて、このSOS。いったいなぜ「SOS」なのでしょうか? SOSとはなにかの頭文字をとったか、略語のように思われがちですが、実は何の意味もありません。 強いて言えば、単純でわかりやすく、かつ覚えやすいということです。 と言うのも、「SOS」は普通モースル信号で発信します。 Sはモールス符号で「・・・」。Oはモールス符号で「−−−」。 つまり、SOSは「・・・ −−− ・・・」となるわけです。 これが単純明快で注意を引きやすく、さらに送りやすいと言う事で、「SOS」となったのです。 ちなみに、SOSを一番初めに使用したのは、あのタイタニックの乗組員。 この時は、SOSの前に使われていた遭難信号も一緒に発されました。 SOSの前の遭難信号とは、「CQD」。 「CQ」とは、モールス信号を受信できる環境にある全ての人に呼びかける信号。 言ってみれば「誰かいませんか!?」と言うもの。 そして「D」は、【distress(遭難)】の頭文字でした。 ただ、最近は衛星システムなどが発達し、1999年にモールス信号が廃止された(アマチュア無線は除く)ため、 「SOS」と言う信号は使われなくなってしまいました。 そのため、現在では遭難信号の発信は、 グローバル・マレタイム・ディストレス・アンド・セーフティ・システム【Global Maritime Distress and Safety System】(GMDSS) と言う物による、特殊な専用発信機(遭難信号自動発信器)が使われています。 ちなみに、GMDSSを直訳すれば「全世界の海の遭難と安全のシステム」となります。 |
「円」は英語で何故「yen」? 日本語がそのまま英語になったという単語は、意外と多いです。 例えば「相撲」や「寿司」などは代表的な例です。 こう言ったものがそのまま英語になるときは、たいていはローマ字表記です。 「相撲」は英語で「sumo」、「寿司」は英語で「susi」です(本当は斜体にするのが正しい表記)。 しかし、「yen」と言う英単語があります。 これは、日本語の「円」がそのまま英語になったものです。 「円」とはご存知日本のお金の単位。 それがそのまま英語になったのにも関わらず、何故か「en」ではなく「yen」です。これはいったい何故でしょうか? 形がいいから。 と言うわけではありません。 実は、「円」とは中国読みをすると「イェン」となるのです。 そして、日本にこの漢字が入って来た当時、「円」は平仮名で「ゑん」と表記されました。 この「ゑ」は、「わ行」の「え」。つまり、「わいうえを」の「え」です(ちなみに「い」は「ゐ」)。 わ行はわ行なのですが、ローマ字表記にすると、何故か「y行」となり、「yen」と表記されるのです。 これがそのまま英語になったのです。 今は「ゑ」も「え」も「エ」と発音していますが、昔は2つの発音は微妙に異なりました。 そのため、「円」も「えん」ではなく「ゑん」と読んでいたのですが、いつのまにか「えん」と読むようになりました。 しかし、英語では「yen」の状態で残ったのです。 これが、「円」を「yen」と書く理由です。 |
「七夕」と書いて「たなばた」と読むのは何故? 毎年7月7日は七夕です。 この七夕。なぜ「七夕」と書いて「たなばたと」と読むのでしょうか? これは、「七夕伝説」の登場人物の1人、「織姫」に由来します。 織姫は、名前からわかるように機織り(はたおり/布を作る事)が得意です。 この機織りをするときに使う機械を、元々は「たなばた」と呼んでいて、それから転じて「七夕」を「たなばた」と読むようになったのです。 なお、何故「七夕」の字なのかは、調べてもよくわかりませんでした。どなたか知っていたら、教えてください。 ちなみに、何故この七夕に願い事を書くかと言うと、これはあまりよくわかっていません。 いくつも説がありますが、どれが正しいかはまだよくわかっていないのです。 ただ、一説だけ挙げておきましょう。 これは、「織姫に由来する」と言う説。 先ほども述べたように、織姫は機織りが得意です。 そのため、奈良時代、女性がこの織姫に機織りなどの技芸の上達を祈ると、それが叶う、と言われたところから、 七夕に願い事を書くようになった、と言う説です。 |
「中元」があるなら「上元」「下元」もあるのか? なんとも言えない愚問ですが、結論から言ってしまうと、「上元」「下元」と言うのは昔はありました。 しかし、いまはその姿を消してしまったのです。 本来、「中元」と言うのは「春分」や「秋分」のように、季節の変わり目を祝う節目で、贈り物とは全く関係のない日でした。 そのため、「上元」「下元」があるのは当然と言えます。 本来、「上元」は1月15日、「中元」は7月15日、「下元」は10月15日となっていました。 が、なぜかいつの間にかに「上元」「下元」が消え、「半年間、無事に過ごせた」と言う事を祝う祭日として「中元」だけが残ったのです。 そしてやがて現在のように、夏の贈り物として使われるようになったのです。 |
ジングルベール…さて、「ジングル」とはなに? ♪ジングルベル ジングルベル 鈴が鳴る… と言うのはアメリカの童謡。皆さんの知っての通り、クリスマスソングです。 さて、ここで気になるのが「ジングル」。 いったい、何のことでしょう? このジングル。実は「擬声語」と言って、「物の音を文字で表したもの」なのです。 なんの音かと言うと、日本語で言う「リンリン」。 これが、アメリカやイギリスではジングル【jingle】(イギリスでは【gynglen】)と発音されているのです。 つまり、言ってみれば「ジングル」とは鈴の音のことなのです。 ちなみに、関係あるのか無いのかよくわかりませんが、タンバリンの周りについている小さいシンバルのような物の名前も、「ジングル」です。 |
ヒエログリフは、どうやって解読されたのか? 古代エジプトにて使われていた、ヒエログリフと言う象形文字があります。 こう言われても何のことだかわからないかも知れませんが、これは古代エジプト語の一種。 ツタンカーメン王の墓や、ピラミッドなどに掘られている、絵のような文字の事です(日本語では、聖刻文字や神聖文字と呼ばれています)。 これは、古代エジプトで使われていた言語で(と言っても、使えた人はごくわずかだったようですが)、言うまでもなく現在は使われていません。 しかし、ピラミッドや、石棺、神殿などに書かれているヒエログリフは、現在次々と解読されています。 現在も使われている言語なら、単語や文法の調べようがありますが、現在全く使われていないヒエログリフを、いかにして解読したのでしょうか? その解読の鍵は、1799年、ナポレオンの兵士が見つけました。 ナポレオンの兵士は、エジプトのラシードと言う町で、一面に文字の刻まれた石版を発見したのです。 それは、現在でもイギリスの大英博物館に収め、展示され、「ロゼッタ・ストーン(ロゼッタとは、ラシードの古称。ロゼッタ石とも)」と言う名で呼ばれています。 石版は、ピンク色の石目の入った灰色の玄武岩で、一面に文字が刻まれていました。 紀元前196年に作られた、プトレマイオス五世の頌徳碑(しょうとくひ/「頌徳」は「恩恵を称える」と言う意味)、あるいは記念として作られた飾り板だと考えられています。 このロゼッタ・ストーンには、3種類の文字が刻まれていました。 上から順に、ヒエログリフ、デモティク(民衆文字。デモティックとも)、ギリシア文字の3つです。 この3つの文字は、それぞれ同じ内容を伝えているようでした(ちなみに、この時代、ヒエログリフとギリシア文字を併記する慣習があったようです)。 つまり、それぞれがお互いを翻訳している、と考えられるわけです。 ギリシア語の読みや意味は、過去から現在までほぼ変わっていませんので、ヒエログリフで書かれている内容もわかります。 あとは、言語を分解し、一つ一つの文字の意味を正確に把握するだけでした。 しかし、言うは易し行う難し。実際は、困難でした。 ナポレオンがイギリスに敗れると、1802年にロゼッタ・ストーンはイギリスに。 そして、ヒエログリフが解読されたのは、ナポレオンの同国人、ジャン=フランソワ・シャンポリオンの功績のおかげでした。 彼は1824年、『ヒエログリフの概要』を書き上げ、近代エジプト学の始祖となったのでした。 参考文献;ヒエログリフを書こう!(フィリップ・アーダ;著。林啓恵;訳) |
「つまらない」の原形は「つまる」なのか? 面白くない事や、くだらない事を「つまらない(詰まらない)」と言います。 普段良く使うこの「つまらない」と言う言葉。 日常的に「つまらない」と「ない」をつけて使っていますが、「ない」とある以上、これは否定形(打消しの形)。 しかし、あまり原形、つまり肯定の形を耳にしません。 やはり、「つまらない」と言う以上、「つまる」なのでしょうか? 実は、そうなのです。 「つまらない」と言う言葉は、「つまら・ない」と解体できます。 「つまら」と言うのは、「つまる」と言う動詞の未然形。 詳しい事は中学で習ってもらいますが、未然形とは、「まだ起こっていない事や、打ち消されることを表す形」です。 つまり、「つまる」の未然形に、打ち消しの助動詞である「ない」をつけ、「つまら・ない」と言う連語になっているのです。 ちなみに、最初に出てきた「くだらない」。 じゃぁこれも「くだる」の未然形に「ない」なのかと言うと…実は、そうなのです。 「くだる」と言う動詞の未然形は、「くだら」。 ここに打ち消しの助動詞である「ない」がつき、「くだら・ない」と言う連語になっているのです。 つまり、面白い事を「つまる」「くだる」と言っても、まぁ間違いではないのです。 |
かまぼこ名前の由来とルーツ かまぼこは、『蒲鉾』と書きます。ちょっと難しい字です。 かまぼこというと、かまぼこ板の上に乗った、半円の形をした、白やピンクの食べ物を連想します。 しかし、昔は違いました。 昔は、棒や竹に塩味のついた魚のすり身を筒型に塗り付け、きつね色に焼いていました。 現在の竹輪(ちくわ)の様な物です。 その形が、ガマと言う植物の、花のつき方に似ているので、「かまぼこ」となったそうです(「ガマ」は昔、「カマ」と言った)。 ガマは、花穂(かすい)と言って、長い花軸に花が群がって咲きます。 それがちょうど、当時のかまぼこの形とそっくりだった訳です。 かまぼこは、室町時代に生まれました(当時の記録には、鯰(なまず)の肉が一番良いと記されています)。 そして、時は流れて安土・桃山時代になり、すり身を板につける『板蒲鉾』が出来ました。 この板かまぼこと、今までの串にさしたかまぼことを区別する為に、 今までのかまぼこを、「竹に巻き付けた輪」なので、「竹輪」と呼ぶように変わったのです。 つまり、昔は竹輪を「かまぼこ」と呼んでいた、と言うわけです。 |
ダイダイの面白い性質と名前の由来 お正月になると飾る、鏡もち。その上にちょこんと乗っているダイダイ。 このダイダイ。なんでこんな名前で、鏡もちの上に乗っているのでしょう? ダイダイの実は冬になると熟して黄色くなります。 が、そのままにしておくと、また春になって緑色に変わります。 そして、また冬になると、また熟して黄色になる…つまり、1つの実が色変わりするという、不思議な性質を持っています。 それで、「代々色が変わり続ける」と言う意味で、「ダイダイ」となりました。 この名前の由来を聞けば、大体何故鏡もちの上に乗っているかも、なんとなくわかるでしょう。 そう、「代々家が継がれる」とか、「家が絶えることなく続く」とか、永遠の生命とか、様々な事を重ね、 縁起物として、飾られるようになったのです。 しかしこのダイダイ。何回でも色が変わるのか…と思いきや、実はそうではありません。 ダイダイの実の寿命は、たった3年。 3年経つと、枝からポトリ、と落ちてしまいます。 なお、ダイダイは漢方にも取り入れられています。 果実の皮を乾燥させたものを橙皮(とうひ)と言い、 去痰薬(きょたんやく/タンを吐き出しやすくする薬。咳止めにもなる)や健胃薬、そして香り付けに用いられています。 また、未熟果実を乾燥させたものを枳実(きじつ)と言い、橙皮同様、去痰薬や健胃薬に用いられたり、 排膿(化膿を和らげる)や緩下剤(かんげざい/下剤の事。こちらの方が、作用は弱い)としても用いられています。 さらにダイダイは、アメリカでダイエット用の健康食品としても用いられています。 ダイダイの皮には、シネフリンと言う化合物が含まれていています。 これは、生薬などに含まれる、エフェドリンと言う成分とよく似た構造をしていて、自律神経を興奮させるため、ダイエットになるのです。 また、エフェドリンは喘息の治療にも用いられています。 ただ、エフェドリンと言うのは覚せい剤の原料でもある劇薬で、現在副作用の報告も出されています。 お正月、ダイダイの皮を食べてしまうと、大変な事になりますので、お気をつけて。 |
とても酔っぱらうことをなぜ泥酔と言うか? お酒を飲んで飲んで、ふにゃふにゃになった状態。この状態を泥酔(でいすい)と言います。 たしかにふにゃふにゃになっていると泥のように見えないこともありませんが、 この言葉の由来は、実は中国に伝わる空想上の虫からきています。 この空想上の虫の名前は泥(でい)。 この虫は、南の海に住んでいる骨の無い生物。 水の中では生き生きしていても、水がなくなると、酔っぱらったかのようにフニャフニャになって、泥のように積み重なるのだそうです。 この虫が水を失った時の状態と、ひどく酔った時の状態がそっくりなため、泥酔とよばれるようになったのです。 ちなみに、酔っぱらいをトラということもありますが、これはお酒を『ささ』というところから来たシャレ。 ささ(笹)にはトラ(虎)がつきものだ! という発想から来たようです。 |
中華料理と中国料理はどう違う? 店によって、「中華料理」と言う看板をあげている場合と「中国料理」とあげている場合があります。 さて、両者はどうちがうのでしょうか? 専門家に聞くと、意外なことに違いはないとの事。 中国料理には北京(ペキン)、上海(シャンハイ)、広東(カントン)、四川(シセン)の違いはあっても、中華と中国の違いはないのです。 では一体何故中華料理と中国料理と使い分けられるようになったのでしょうか? はっきりとはわかりませんが、その言葉の持つイメージが重要なポイントのようです。 すなわち、「中華料理」の方が「中国料理」よりも若干、高級らしく聞こえる、と言う事です。 その証拠に、有名なホテルや大きな店はだいたい中華料理と銘打っていますし、 メン類や飯類、ギョウザを中心とする街の料理店は圧倒的に中国料理が多くなっています。 つまり、両者の違いはほとんどありませんが、その値段に違いがあるようです。 |
ティーパックか、ティーバックか、ティーバッグか? 紅茶などを作るとき使う袋。 お湯にその袋を入れると、簡単に紅茶などが出来るのですが…この袋、なんて言う名前なんでしょうか? ティーパック? ティーバック? ティーバッグ? ティーパッグ? いろいろと考え付きますが、いったいどれでしょうか? これは、英語で書けば簡単にわかります。 英語で書くと【tea bag】お茶の袋です。 このbagという英単語の発音は、片仮名で書けば『バッグ』。 ですので、正解は『ティーバッグ』というわけです。 |
甘い飴、その驚きの語源 戦前から子供たちに親しまわれている飴(アメ)。 この飴の語源をご存知でしょうか? 「そのまんま『甘い』が語源なんだよ」 と一発ギャグをかます方。 実は、それが正解なんです。 「甘い」→「あめえ」→「飴」と変化していった言葉で、なんと「甘い」が語源となっているのです。 よく「この飴あめえ」なんてシャレ言ってる人がいますが、それは当たり前。なにしろ、語源が「甘い」なのですから。 ちなみに、アメンボが「アメ」ンボと言うのは、飴のように甘い匂いを出すからです。 …もっとも、どんな匂いなのか、よく知りませんが。 |
フルーツ・ポンチの「ポンチ」とはなに? 色とりどりの果物を盛り合わせたフルーツ・ポンチ。 このフルーツ・ポンチと言う単語。 「フルーツ」はわかりますが「ポンチ」ってなんでしょう? この「ポンチ」とは、元々は「パンチ」と言う飲み物から来ています。 「パンチ」はヒンズー語で「5」と言う意味があります。 「パンチ」はインドで作られたカクテルの名前で、5種類の材料を混ぜ合わせたところからつけられたものです。 5つの材料とは、一般には水・砂糖・酒・レモンジュース・スパイスとなっています。 このカクテルの名にフルーツを冠して「フルーツ・パンチ」となり、それが変化して「フルーツ・ポンチ」となりました。 パンチ風の甘い飲み物にフルーツをたくさん入れたもの、といった程度の意味です。 いまはシロップですけど、本来は水・砂糖・酒・レモンジュース・スパイスを使用するべきなのかもしれません。 |
野菜を売る店を何故「八百屋」と呼ぶのか? 昔は一歩外へ出ればいろんなところにあった八百屋さん。 他愛もない世間話をしながら買い物をしたり、子供だけで行くと少しまけてくれたりと、なかなか趣のあった八百屋も、最近はあまり見なくなりました(まぁ、あるところに行けばまだ結構残ってるけど…それでもやっぱりスーパーの方が多い)。 さて、この八百屋。もちろん野菜を売っているお店で、「やおや」と呼びます。 しかし、なぜ「八百屋」と呼ぶのでしょうか? 「八百屋」と呼ぶようになったのは江戸時代から。 それ以前は「青物屋(あおものや)」と呼んでいました。 菜っ葉のことを宮中の官女達は「青物」と呼んでいたからです(今も呼んでいますが…)。 そこから野菜のことを「青物」と言うようになり、江戸時代になると野菜を売る店のことを「青物屋」と呼ぶようになったのです。 この「青物屋」が略されて「青屋(あおや)」と呼ばれるようになり、その「アオヤ」が転じて「ヤオヤ」となったのです。 「八百屋」と言う漢字は、扱う賞品の種類が多いことから、この字が当てられたのです。 ちなみに、江戸時代には八百屋は「八百物屋(やおものや)」、「八百屋店(やおやみせ、やおやだな)」とも呼ばれており、八百屋で扱う品物のことを「八百屋物」と呼んでいました。 |
ありがとう=サンキューではない!? これは、まるっきり別物だ、と言う意味ではなく、「100%同じではない」と言う意味。 両者共に「感謝」を表すとき使う言葉ですが、では、どう違うのでしょうか? 「ありがとう」は、漢字で書くと「有り難う」。 これを訳すと「こんな“有るのが難しい”くらい親切な事をしていただいて感謝しています」と言う意味。 「有るのが難しい」と言うのはどう言う事かと言うと、「滅多に無い」と言う事です。 一方「サンキュー【Thank you】」はThank(感謝する)+You(あなたに)で「わたしはあなたに感謝する」と言う意味。 つまり、「ありがとう」は「世の中にとって、こんな珍しい事はない」と、世の中と比較して間接的に感謝しているのに対し、 「サンキュー」は自分の気持ちをストレートに表現していると言えます。 別にわざわざ使い分ける必要は、全くありませんが…。 |
テレフォンはもともと電話ではない これはもちろん昔の話。 電話の事を英語で「テレフォン【telephone】」と言います。 電話を発明したのはアメリカの科学者ベルで、1876年にその特許を取得しています。 ベルは自分で発明した電話に「telephone(以下 しかし、テレフォンと言う言葉は、電話の発明以前から存在していました。 では、本来は何を意味していたのでしょうか? ベルが電話の特許を取る42年前の1834年。 フランスのスドレーと言う科学者が電信機を作り、それをテレフォンと名付けました。 これがテレフォンと言う言葉の起源なのです。 このテレフォンと言う言葉はそのまま英語にも取り入られ、 イギリスではまずテレフォンは船の警戒信号装置を指す言葉として用いられ、後にはメガフォンのようなものをテレフォンと呼ぶようになりました。 そして電話が発明され、テレフォンは電話を意味する言葉となったのです。 |
“ワタシ”と言う漢字は存在しない 自分のことを丁寧語で、「ワタシ」と言います。 この「ワタシ」と言う言葉は、よく漢字で「私」と書きますが、実はこれ、間違いなのです。 「私」という漢字には「わたくし」と言う訓読みと、「シ」と言う音読みしかなく、「ワタシ」という読みはないのです。 しかし、同じ一人称の丁寧語である、と言うことでいつのまにかに「私」と書いて「ワタシ」と読むようになってしまったのです。 ただ、辞書には「常用外音訓」として、「わたし」と言う訓読みも載っています。 近い将来、「私」と書いて「わたし」と読むのが正しい日が来るかも知れません。 |
勉強の本来の意味 今日では、「勉強」と言う言葉は、「勉学」「学習」と言った意味で用いられています。 しかし、実は「勉強」と言う言葉には、本来は「学習」…つまり、「学ぶ」と言う意味はなかったのです。 中国語で「勉強」といえば、「力が足りないために、無理に行うこと」を意味します。 その「勉強」と言う単語が日本に入ってきた当時、日本でもしばらくの間は「気が進まないことを仕方無しにする」とか「努力をして困難に立ち向かう」と言った意味で用いられていました。 江戸時代中期に書かれた『安斎随筆(あんさいずいひつ)』に「勉強――この二字、なりがたき事をしいてしとげるを云うなり」とあります。 噛み砕くと、「勉強…この言葉は、やりたくない事を仕方なしにやる事を意味する」と言った感じです。 それがいつしか「学習」と言う意味に用いられるようになりました。 今度、親に「勉強しなさい」と言われたら、「勉強の本来の意味は『気が進まないことを仕方無しにする』と言う意味なんだよ?」とでも言えば、勉強(学習)をせずにすむかもしれません。 ただし、本当にこう言ってあなたがどうなっても、当館一同、及び管理人は、一切の責任を負いませんのであしからず。 |
「呉越同舟」の正しいの意味 「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」と言う四字熟語(故事成語)があります。 この言葉、早い話が「最悪の状況」と言う意味に使われがちですが、実は正しくは全く別の意味の言葉なのです。 その前に、この故事成語の背景を説明しましょう。 「呉越同舟」とは、「呉の人と越の人が同じ舟に乗り合わせてしまい、最高に悪い様子」と言うことです。 この「呉」と「越」と言うのは、遠い昔、今の中国が「春秋戦国時代」と呼ばれる時代だった時にあった国。 当時、今の中国は多くの国に分かれていました。 そして、「呉」と「越」の2国は、ものすごく仲が悪い国でした。 そのため、「呉越同舟」と言えば、「仲の悪いもの同士が同じ舟に乗り合わせた最悪の状況」と誤解されてしまったわけですが…本当は違います。 この「呉越同舟」と言う故事成語は、兵法の書「孫子」の第十一篇「九地」と言うものに書かれています。 その話の内容を訳すと、 「呉人と越人は互いにいがみ合っているが、偶然乗り合わせた舟が突風に遭ったなら舟がひっくり返されるのを防ごうとして、まるで左右の手のようにお互いに力を合わせて事にあたる」 …つまり、「普段仲の悪い者同士でも、危機に直面すればお互いに力を合わせる」と言う意味なのです。 これからは、是非とも正しく使ってください。 |
寿司を食べ終わった客が「おあいそ」と言うのは本当はおかしい お寿司屋などで、食べ終わって席から立つときに、よく「おあいそお願いします」と言います。 が、実はこれ、元々の意味を考えると、客が言うのはおかしいのです。 この「おあいそ」。漢字で書くと「御愛想」。 元々は、 「ぶしつけにお勘定のことなど持ち出しまして、さぞかし愛想尽かしでございましょうが」 つまり、「いきなりお金の話などして、愛想を失くすかも知れませんが…」と言う意味で、 勘定を請求する側(つまり店側)が、へりくだって口にする言葉だったのです。 ですので、「おあいそお願いします」は、板前がレジに向かって言ったり、店が客に伝票を渡すときなどに言う言葉であって、決して客が言う言葉ではないわけなのです。 |
政府の報告書は何故「白書」と言うのか? 政府の提出する報告書のことを「白書」と言います。 いろいろとつらつら文字が書かれているのに、なぜ「白書」…つまり、「白い書物」と言うのでしょうか? それは、イギリスに関係があります。 イギリスの政府は、外交の内容を国民に知らせるために、「ホワイト・ペーパー(white paper)」と言う公式の調査報告書を出していたのです。 これを直訳して、日本初の公式調査報告書に「白書」と名づけたことから始まっています。 となると当然出てくる疑問が「何故イギリスはホワイト・ペーパーと言ったのか?」です。 これは実に単純で、単に表紙に白い紙を用いたことによるものです。 「ホワイト・ペーパー」の他に、「ブルー・ブック(blue book)」と呼ばれるイギリス議会と枢密院議会の報告書もあります。 もちろん、この報告書も表紙に青い紙を用いているためにこう呼ばれたものです。 これらを直訳して、政府が現状を一まとめにして、報告書のような形を取った文書のことを「白書」や「青書」と呼んだのです。 ちなみに、日本で初めて白書が出されたのは、昭和22年(1947年)7月の片山哲(かたやまてつ)内閣の時で、「経済白書」がその第一号です。 全文52ページの小冊子程度のものですが、「財政も企業も家計も赤字」と言う表題で、執筆者の都留重人(つるしげと)氏が敗戦直後の混乱した経済情勢について報告しています。 スタート当時はいつまで続くかわからないと思われていましたが、回を重ねるごとにページ数も増え、 「50回近くも続いている白書はアメリカ大統領経済諮問(しもん)委員会の年次報告があるだけ」といわれるほど息の長いものになっています。 いまでは、ほとんどの省や庁がこの白書、または青書を出しています。 |
「赤の他人」がいるのなら、「白の他人」もいるのか? 全く知らない他人の事を、「赤の他人」と言います。 しかし、だからと言って、「白の他人」や「黒の他人」などが存在する訳ではありません。 この「赤」とは、色を表す「赤」ではないのです。 本来、「赤」には「明るい」と言う意味があり、そこから「遮る物が何もない状態」=「明白」と言う意味を持つようになりました。 そのため、この「赤の他人」の「赤」とは、「明白な」や「全くの」と言う意味なのです。 ですので、「全く関係のない他人」の事を「赤の他人」と言うようになったのです。 また、「赤裸」だの「赤裸々」と言う言葉の「赤」も同様の意味合いで、「全くの裸」と言う意味になります。 肌が赤いから「赤裸」と言うわけでも、血の色で「赤裸」と言うわけでもありません。 そんな事は「真っ赤なウソ」。 今まで本気でそう信じていたようならば、「赤っ恥」を書く前に、記憶を修正しましょう。 同時に、「真っ赤なウソ」「赤っ恥」の「赤」も、「全くの」と言った意味です。 |
「とどのつまり」の「とど」とは? 「結局のところ」「最終的に」と言うような意味の言葉、「とどのつまり」。 「トド」と言うと、あのアザラシやアシカのような、アシカ科のでっかい動物を連想しますが、あれとこれと、何の関係があるのでしょうか? 実は、この「とど」はアシカ科の「海馬」ではなく、魚類の「鯔」の事を言っているのです。 「ボラ」と言う魚はご存知でしょうか? 出世魚…つまり、成長するにしたがって、名前が変わることで有名な魚です。 このボラは、生まれたてから順に、 ハク→オボコ→スバシリ→イナ→ボラ と成長していき、最終的に「トド」と呼ばれるようになります(実は、「鯔」には「トド」や「ボラ」や「イナ」などの読みがあります)。 つまり、ボラは最終的に「トド」に行き着くわけです。 ここから、「結局のところ」「最終的に」と言う意味合いで、「とどのつまり」と言うようになったのです。 |
「はくし」と「はかせ」は何か違うのか? 「博士」と「博士」。 全く同じ漢字なのに、読みは「はくし」と「はかせ」の二通りがあります(ルビを振っている方には、どう表示されているかは不明です)。 この2つ。わざわざ読み方を分けている以上、言葉の意味も、キチンと二通り存在します。 まずは「はかせ」の方。題名では「はくし」を先にしていますが、歴史的に古いのはこっち。 645年の大化の改新にて誕生した、学生を教育する職業として、「国博士」が置かれました。 当時は、「大学寮」「典薬寮」「陰陽寮」と言うところに、色々な博士が置かれていました。 「大学寮」には音、書、算、明経(みょうぎょう/論語の事)、紀伝(きでん/伝記のようなもの)、明法(みょうぼう/法律)、 「典薬寮」には医、針(針治療の「針」)、呪禁(じゅごん/まじないなどで災いなどを追い払う事)、 「陰陽寮」には天文、陰陽(おんみょう/中国古来の思想)、暦、漏刻(ろうこく/時間)などの各博士が置かれていました。 そして、彼らはそれぞれの専門分野を、人々に教えたのです。 ただ、現在の言葉としては、「はかせ」は単純に学問に詳しい人や、その道の知識に詳しい人のことも指します。 一方、「はくし」はと言うと、こちらは、明治20年(1887年)に定められた学位の1つ(いわゆる「博士号」です)。 大学院の博士課程を卒業して、自分の書いた論文が審査に通り、かつ試験に合格した人に与えられる学位です。 または、博士課程を卒業せずとも、相当の功績(例えば、素晴らしい論文を書いた、など)を残した人にも、「はくし」の学位が与えられます。 前者を「過程博士」、後者を「論文博士」と言います。 博士号は、出来た当時は法、医、薬、工、経済、政治など14種類があったようですが、現在は19種類に増えているそうです。 増えているらしいのですが、いくら調べても何があるのかわかりません(どなたか知っていたら、教えてください)。 このように、「はくし」「はかせ」は微妙な違いがあるのです。 しかし、紛らわしいのは、「はくし」の方は、「はかせ」と言っても間違いではないと言う事。 「はかせ」は「その道に詳しい人」の事も指すので、「はくし」も「はかせ」と言えるのです。 なんて色々書くと余計ややこしくなってしまいますが、簡潔に述べますと、 「『はかせ』とは『物事に詳しい人』の事で、『はくし』とは『博士号を持っている人』の事」 と言うことになります。 ですので、雑学に詳しくなれば「雑学はかせ」にはなれますが、どんなに頑張っても「雑学はくし号」が出ない限り、「雑学はくし」にはなれないのです。 |
書く方向で意味が変わる不思議な漢字がある! 漢字の書き順や、書く方向と言うのは、キチキチッと決まっており、辞書等にキチッと書かれています。 「書き順や書く方向なんて、どうだって良いじゃないか」と言う方もいらっしゃるでしょうが、 実はなんと、書く方向で意味が変わってしまう漢字が存在するのです。 日常ではまず目にする事の無い不思議なその漢字は、画数たったの1画。 それは、「h」と言う漢字。読み方は、「コン」です。 文字化けしている可能性があるので、念のため別の形で表すと、「|」。 この漢字。「書く方向」と言えば、もちろん「下から上」と「上から下」の二通り。 普通の漢字のように、上から下に書けば、「退く」と言う意味になります。 逆に、やや書きづらい気もしますが、下から上に書けば「進む」と言う、先ほどとは反対の意味になります。 書く方向が逆だから、意味も逆。 そうした点でわかりやすいと言えばわかりやすいですが、読む時にどちらの意味に捉えるべきなのか、判断に苦しむ字です。 時々、「退く」「進む」の代わりに、「h」と書いてみれば、少し自慢できるかも知れません。 問題は、あとで自分が見たときに、「退く」なのか「進む」なのか、わかるかどうか、ですが…。 ちなみに、こちらの資料だと「h」の字は下がはねていますが、うちのPCでは、上がはねています。 どちらが正しいのかは今のところ不明です。どなたか知っていたら、教えてください。 ただ、もしかしたら、資料は「退く」、PCは「進む」と書いているのかも知れません。 参考文献;セレクト漢字検定 5級〜2級(桐原書店編集部 編) |
「チョコレート」を漢字で書こう! 江戸時代。日本は、鎖国社会の中でも、ごく一部で、外国とのつながりを持っていました。 しかし、当然その当時はアルファベットはもちろん、カタカナすら日本にはなかったので、外国のものでも、漢字で表記されました。 「チョコレート」も、そのうちの1つです。 チョコレートが日本に入って来たのは、江戸時代真っ只中の1700年代。 「チョコレート」と言う漢字が、当時存在したのです(今でも使える事は使えますが)。 しかも、何種類もあります。とりあえず、調べられたのだけ、並べてみましょう。 「貯古齢糖」「査古律」「知古辣」「叔箇齢度」「呵々阿」「猪口冷糖」「千代古齢糖」「血汚齢糖」 などなど、盛りだくさん。 また、読みも「チョコレート」以外に「ちょくらあと」「しょくらあと」「しょくらとを」など、色々あったようです。 ちなみに、「チョコレート」を中国ではどう書いているかと言うと、「巧克力(チョクゥリィ。発音記号は【qiaokeli】)」。 中国語では、「巧」は「器用な、巧妙な」、「克」は「〜できる」、「力」は「力を出す」と言う意味ですので、 「巧克力」は(「巧」が訳しにくいですが)、「うまく力を出す事が出来る」と言う意味になります。 それもそのはずで、チョコレートが作り出された大昔は、カカオ豆をすりつぶしただけのドロドロの汁。 しかし、これを飲むと不思議と力が出る、と評され、万能薬とも言われるようになりました。 その証拠に、当時はカカオ豆で物が買えたほど。 そんなすごいものなのですから、「巧克力」と呼ばれて当然な訳です。 参考文献;チョコレート加工専門メーカー −セイワ食品−【http://www.seiwafood.com/index.html】 |
「カライ」と「ツライ」は何故同じ字なのか? 「辛い」と言う字には、「カライ」と「ツライ」の二通りの読みがあります。 両者は全く違う意味なのに、何故同じ漢字が使用されているのでしょうか。 まずそもそも、「辛」とはどう言う意味の漢字なのでしょうか。 「辛」は、「象形文字」と言って、ある物の形を表す漢字です。 「辛」が表す物は、「入れ墨用の針」。 この針は、罪人に対する「入れ墨刑」のための針。比較的軽い罪に適用されていました。 そのため、「辛」と言う字の本来の意味は、「罪」と言う意味でした。 余談ですが、この「罪」と言う字も、元々「自」の下に「辛」と書いていました。 この「自」は鼻を表し、「鼻に入れ墨を入れる」と言う刑罰を表しています。 話を戻しましょう。 この入れ墨刑。入れる時に痛みを覚えるため、かなりつらい刑だったのです。 そこで、この「辛」と言う文字は、「入れ墨用の(痛い)針」転じて「つらい」と言う意味になったのです。 また、入れ墨をする時の痛みの事も「辛」と言いました。 つまり、「辛」には、「つらい」と言う意味が先に込められたのです。 では何故これが「カライ」になったのでしょうか。 肝心なところなのに詳しくはわからなかったのですが、どうやら昔の人は、この「つらい」と言う感情を、味覚の上に移転。 「つらい味=からい」としてしまったのです。 もしかしたら、「針で刺すような味=からい」としたのかも知れません(詳しい経緯不明。知っている方、教えてください)。 そのため、「辛い」には「つらい」と「からい」の二通りの読みが出来てしまったのです。 ちなみに、この「辛」から生まれた言葉は、「罪」以外には「言」や「妾(めかけ)」があります。 「サイ」と呼ばれる、祝詞(のりと/神への祈りの文)を入れる器に、この「辛」を載せると、 「神へ誓いをたてることば」と言う意味の「言」になります(下の四角が器で、上の4本が「辛」)。 また、女の額にこの「辛=入れ墨」をすると、「神の生け贄になる女」と言う意味の「妾(女性の一人称。又は男性にとっての浮気相手)」になります。 とにかく、「辛」の元々の意味は「入れ墨用の針」。針で刺されるような痛みを受けて、初めて「辛い」と言えるのです。 |
「ヒニチ」は漢字でどう書くのか? 「ヒヅケ」は漢字で「日付け」です。「ヒビ」は漢字で「日日(日々)」です。 では、「ヒニチ」はどう書くのでしょうか。 通常目にするのは、「日にち」と言う字。 「ヒ」が漢字で「ニチ」が平仮名ですが…実は、両方とも漢字で書けるのです。 「ニチ」と言う以上、そう、実は「日」を使うのです。 ですので、「ヒニチ」は漢字で「日日」と書くのです。 これだと「ヒビ」と同じ形になってしまいますが、そこは文章の意味などから推測しろ、と言う事です。 ちなみに、「日日」は「ヒビ」「ヒニチ」以外にも、 「カガ」「ニチニチ」と言う読みもあります。 どれも意味はほとんど同じで、「カガ並べて」と書くと、「日数を重ねて」と言う意味になり、 「ニチニチ」は、「1日1日」や「毎日」と言った意味になります。 |
「か゜」!? 例えば、次の文章は、皆さんはどう読みますか? 「ここが、わたしの学校です」 この文章の、「ここが」と「学校」。両方とも、「が」が入っています。 しかし、平仮名で書けば同じ「が」ですが、この2つの「が」は、実は読みが違うのです。 「学校」は普通に「ガッコウ」と読んでいいのですが、「ここが」は、「ココガ」ではなく、「ココカ゜」と読むのです。 「カ」の右上についているのは、「ぱぴぷぺぽ」についている「゜(半濁点)」。 普通、「か」に半濁点はつけませんし、一般には正しい表記ではありません。 しかし、「『か゜』を認めるべきだ」と主張する人も、中にはいるのです。 そもそも、「学校」と「ここが」は何が違うのでしょうか。 「ガッコウ」の「が」は、文節の最初に来ています。この場合は、普通に「ガ」と読んでいいのです。 文節とは、なんとなく、自然に文章を区切れる場所で文章を区切った場合に得られる節の事。 「本を読む」なら、「本を」「読む」の二文節に分けられます。 しかし、「ここが」の「が」は、文節の最初には来ていません。 このような場合は、「ガ」ではなく、「カ゜」と発音するのです。 では、この「カ゜」はどのように発音するかと言うと、早い話が鼻濁音。 鼻濁音とは、マ行やナ行のように、鼻にかかる声の事で、「カ゜行」の音の事を、特に「ガ行鼻濁音(ガ行鼻音)」と呼びます。 つまり、「カ゜」以外にも、「キ゜」「ク゜」「ケ゜」「コ゜」が存在する訳です。 発音としては、「ンガ」に近い発音になります(英語の発音記号で書くと、「」です)。 「か゜」と言う表記も、一般には使用しませんが、専門分野では、鼻濁音を強調するために、この表記を用いる事もあります。 ただし、文節の頭以外は全て「か゜」かと言うとそうでもなく、「五」はどこに来ても「ゴ」と発音しますし、 また、「日本銀行」などの複合語(2つの単語が合わさって、1つの単語になったもの)の場合も、 その単語の複合度が強い場合は「か゜」ですが、弱い場合は「が」になります(「日本銀行」は「ギ」)。 ここら辺は微妙なニュアンスの違いになってしまいますが、そう言う風になっています。 この「か゜行」、元々は東京語(東京の方言。言ってみれば、東京弁)で、東京や、それより北の地域で使われていました。 東京語は、後に日本の標準語(共通語)の基盤になる言葉で、そのため、NHKのアナウンサーの訓練では、「が」と「か゜」を区別しているそうです。 つまり、「わたしは」を「ワタシワ」と自然に読むように、「わたしが」も「ワタシカ゜」と自然に読めるようにしているのです。 しかし、最近の若い世代の人々は、この「か゜行」を用いる人が少なく、「か゜行」は現在、日本語から失われる傾向にあるようです。 「か゜」を使うべき、と主張する人々が言う、その理由は、「その方が美しく聞こえるから」と言うだけ。 美しいかどうかは個人で感じ方が違うのでなんとも言えませんが、たまにはか゜行を意識してみるのも、乙な物かも知れません(?)。 |
学ランの「ラン」って? 襟が立っていて、主に黒い学生服、学ラン。 この「ラン」とは、いったい? 実はこの「ラン」は、「オランダ」の「ラン」なのです。 江戸時代、日本にやって来たオランダ人は、詰め襟を着ていました。 その服の事を、日本人は「オランダ人の着ている服」と言う事で、「ランダ」と呼んでいました。 そして、1879年(明治12年)に、学習院と言う学校が、学校制服としてこのランダを起用。 ここから、「学生用ランダ」と言う意味で、この詰め襟の事を、「学ラン」と呼ぶようになりました。 ちなみに、オランダにとってこの「ランダ」は、軍服。 他にも、詰め襟を軍服とする国は多く、日本でも、旧陸軍や海軍は、詰め襟を軍服として採用していました。 |
「草葉の陰」ってどこの事? よく、人が亡くなった後に何かあると、「○○さんも、草葉の陰で喜んでいるだろう」とか、「草葉の陰で悲しんでるだろう」とかと言います。 この「草葉の陰(草の陰、とも言う)」と言う言葉、まるで死んだ人が「草葉の陰」にいるかのように使いますが、では、それはどこでしょう? 日本では、古来より死んだ人を土に埋めていました。 今は、埋葬したところに墓石を置いていますが、墓石を置かない時代もあったのです。 すると、当然埋葬した真上に、草が生えてきます。 草がたくさん生えると、その草の下が陰になります。 当然、死者はその下…つまり、「草葉の陰」の下に眠っているわけです。 ですので、「草葉の陰」と言うのは、お墓の事なのです。 現在は墓石を置きますが、しばらく放って置くと、あっという間に墓石の周りが草だらけ…。 その状態が、本来の意味での「草葉の陰」となるわけです。 |
「I’m sorry」と「すみません」の大誤解! 「外国人(英語を使う人)から見ると、日本人は謝ってばかりいる」と言う話があります。 これは、日本語と英語の言葉の違いから来る、一種の誤解なのです。 英語で謝る場合、一番有名なのは「I’m sorry」。日本語では「すみません」「ごめんなさい」などです。 ところが、日本語では、「すみません」を、謝る場合以外にも使います。 その、「謝る場合以外」の「すみません」を英語で言うとき、単純に「I’m sorry」としてしまうため、冒頭のような話が生まれるのです。 例えば、道に迷ってしまって、誰かに道を聞きたい時。 日本語ならば、目の前の人に「すみません」と言って、声をかけます。 これを、英語で「I’m sorry」と言ってしまうと、間違い。正しくは「Excuse me(イクスキューズ・ミー)」です。 また、会話中にセキが出たり、肩が触れてしまったりと、ほんの小さな事の場合も、「I’m sorry」ではなく、「Excuse me」が使われます(ただし、イギリスでは「Sorry」の方が多いようです)。 それから、「ありがとうございます」と言う意味合いでの「すみません」。 「すみませ〜ん。どうもわざわざありがとうございます」などという場合の「すみません」も、「I’m sorry」と言うと間違い。 この場合は、単純に「Thank you(サンキュー)」で構いません。 他には、「すみませんが、○○してくれますか?」と言う場合の「すみません」。 実は、英語には、このような場合「すみません」をつけません(日本語に訳す時に、つける場合がある)。 ですので、そのまま「○○してくれますか?」と言えば良いのです。 ちなみに、「○○してくれますか?」は、「Would you ○○(ウッデュー○○)」と言います。 「すみません、もう一度言ってくれますか?」には、一語で表す単語があり、「Pardon?(パードゥン?)」と言います。 英語の授業のようになってしまいますが、最後にこんな例文を。 「すみません。最寄りの銀行はどこでしょうか?」 「すみません。ちょっとわかりません」 「すみませんでした」 これを英語にすると、 “Excuse me. Where's the nearest bank, please?”“I'm sorry. I don't know.”“Thank you anyway.” 下線を引いたところが、各セリフの「すみません」にあたります。 なお、最後の一言が「Thank you」ですが、これは英語の慣習で、仮に相手が答えられなくても、「聞いてくださりありがとうございます」と言うような意味合いで、「Thank you」と言います。 ちなみに、注意された時も、「I’m sorry」ではなく、「Thank you for advice(サンキュー・フォー・アドバイス)」と答えるのが普通です。 こうしてみると、英語を使う人は、感謝ばかりしているように見えるのですが、どうでしょう?(別に悪い事ではありませんが) |
「宇宙」って、どんな場所? 夜、空を見上げると満天の星空が…。この星がある場所が、宇宙です。 では、この「宇宙」と言う「言葉」は、いったいどんな意味なのでしょうか? まず、この「宇」と「宙」の関係ですが、この2つは「対義語」と言って、お互いに反対の意味を持つ漢字なのです。 「宇」と言う字の下の部分は、「弓なりに曲がってまたがる」と言う意味で、上の部分(ウ冠)は、「屋根」や「覆う物」と言う意味です。 つまり、「宇」とは、「自分の上に覆いかぶさる物」を意味します。 そこから、「自分の上に覆いかぶさる物=空間」と言う意味が、「宇」と言う漢字に与えられました。 そして「宙」と言う字の下の部分(由)は、「深く通じる穴」を意味します。 これに「ウ冠」がかぶさると、「奥深くまで伸びている建物」と言う意味になります。 奥深くまで伸びる建物は、「永遠に続く」と言うイメージを持たせます(少なくとも、昔の人は持ったようです)。 そこから、「永遠に続く物=時間」と言う意味が、「宙」と言う漢字に与えられました。 つまり、「宇」は「空間」を意味し、「宙」は「時間」を意味する漢字と言う事。 ですので、「宇宙」とは、「空間と時間」と言う、我々の住むこの3次元(上下・左右・前後)と時間を合わせた4次元を表す言葉なのです。 なお、「宇」と「宙」には、どちらにも「無限」と言う概念があります。 要するに、「宇」は「無限の空間」、「宙」は「永遠の時間」を表している、と言うわけです。 ちなみに、「宇」と「宙」は一応対義語ですが、概念が似ているのか、同じ意味も持っています。 この2つの漢字には、この他に、「空」「天」と言う意味があり、「宙」も、「空間」と言う意味を持っています。 「宙返り」や「宙に浮く」などは、この「空」や「空間」の概念から生まれた言葉です。 ただし、「宙」に「空間」と言う意味を持たせたのは日本人。本来の意味ではありません。 中国の文献には、「往古来今、謂之宙。四方上下、謂之宇」 つまり、「過去・現在・未来を『宙』と言い、上下・左右・前後を『宇』と言う」と記されているそうです。 |
「quiz(クイズ)」の語源! 「クイズ」と言うカタカナ語は、英語の「quiz」から来ています。 日本でも、「Q」と略されてよく見かける単語ですが、実は、この単語の語源として、とても面白い説があるのです。 時は1791年。アイルランドのダブリン市に、「デイリー」と言う劇場支配人が住んでいました。 デイリーは、仲間と飲んでいるとき、あろう事か「新しい言葉を一晩で流行らせる」と断言。 そして、その事で仲間と賭けになってしまったのです。 この賭けに勝つ方法として、デイリーが編み出した方法が、「町中に落書きをする」と言うもの。 そう、このとき落書きされた言葉が、「QUIZ」と言う4文字だったのです。 デイリーは一晩で町のいたるところに「QUIZ」と書き記し、翌朝、町中「QUIZ」だらけになりました。 この4文字は、デイリーが勝手に作った言葉なので、もちろん意味などなく、当然町の人たちも、「QUIZ」の意味がわかりません。 そのためなのか、あっという間に「QUIZ」と言う4文字が、町中の話題になりました。 デイリーが宣言したとおり、たった一晩で、「QUIZ」と言う単語が流行語になったのです。 さらに、この町から、「QUIZ」と言う言葉が全国に広がりました。 ここから、「QUIZ」は「分からない」「ナゾ」と言う意味になり、後に辞書にまで載るようになったのです。 この説の真偽は、完全にはまだわかっていないらしいですが、結構有力な説のようです。 |
何故「兄弟都市」ではなく、「姉妹都市」と呼ぶのか? 文化交流などの目的で、特別な関係を結んだ、国違いの都市の事を、「姉妹都市」と呼びます(日本では、国内同士でも「姉妹都市」と言う場合があります)。 「特別な関係」と言う意味合いで、「姉妹都市」と名付けられたわけですが、何故「兄弟」ではなく「姉妹」なのでしょう? 別に、兄弟だろうが姉妹だろうが、どっちだって構いませんが、「姉妹」になったのには、ちゃんとした理由があるのです。 姉妹都市の制度が始まったのは、第二次世界大戦後。 当時のアメリカ大統領アイゼンハワーが、壊滅的な打撃を受けたヨーロッパの各都市を復興させようとしました。 そこで彼は、アメリカの各都市と、ヨーロッパの各都市との間で条約を結ばせ、民間レベルで協力させました。 これが、姉妹都市の始まりです。 ところで、ヨーロッパのほとんどの国の言葉には、名詞に性別があります。 例えば、日本語で「トランプ」と言えば、男も女もありませんが、フランス語で「トランプ」と言うと、女性になりますし、 日本語では「光」に性別はありませんが、フランス語で「光」は、男性になります。 ヨーロッパの言語には、このように、名詞に「男性名詞」と「女性名詞」の2種類が存在するのです。 そして、「都市」は、フランス語、ドイツ語、スペイン語、その他ほとんどのヨーロッパ言語で、女性名詞になります。 そのため、「兄弟都市」ではなく、「姉妹都市」と呼ばれるようになったのです。 ちなみに、ロシア語では「都市」は男性名詞なので、ロシアでは「兄弟都市」と呼んでいます。 ただ、日本の新潟市とロシアのハバロフスクは条約を結んでいますが、日本では「姉妹都市」と呼んでいます。 ところで、面白いのがイギリス英語とアメリカ英語。 イギリスとアメリカは、同じ英語を話しますが、発音や単語が微妙に違います。 アメリカでは、姉妹都市の事を、【sister city】と呼んでいます(日本語の「姉妹都市」は、これの直訳)。 ところが、イギリスでは、日本語同様「都市」に性別が無いので、【twin city(双子都市)】と呼んでいるのです。 なお、「姉妹」と言うと上下関係が生じるので、「友好都市」や「友好交流都市」と言う表現もあります。 ちなみに、日本での姉妹都市は、 エジプトのカイロと東京、イタリアのミラノと大阪、アメリカのミネソタ州セントポールと長崎市などがあり、 2004年4月1日現在で、40都道府県と922市町村が、姉妹(兄弟、友好)都市を持っています。 変わったところでは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の江原道元山(ウォンサン)と鳥取県境港(さかいみなと)市が、友好提携しています。 北朝鮮との提携は、これ1件だけ。結ばれたのは、1992年です。 なお、日本初の姉妹都市は、1955年12月、アメリカのミネソタ州セントポールと長崎市の両市です。 |
「一富士二鷹三茄子」の次 初夢に見るといい物として「一富士二鷹三茄子(いちフジ にタカ さんナスビ)」と言う諺があります。 有名なのは「三なすび」までですが、実はこれには、続きがあります。 4つ目は「扇(おうぎ)」、5つ目は「煙草(たばこ)」、6つ目は「座頭(ざとう)」です。 ですから「一富士二鷹三茄子、四扇五煙草六座頭」となっているわけです(四は「ヨン」より「シ」と読んだ方が語呂が良いので、おそらく「シ」と読むのが正しいのでしょう)。 この言葉は江戸時代初期から使われていますが、何故この6つが選ばれたのかには、諸説があります。 1;徳川家康の地元が駿河国(静岡県)で、そこの名物 2;駿河国での高いもの順(富士山、愛鷹山、初物のナスの値段) 3;徳川家康が好んだ物 4;富士は「無事」、鷹は「高い」、ナスは「(事を)成す」の掛詞 5;富士は「日本一」、鷹は「賢くて強い」、ナスは「(事を)成す」 などです。 また、この6つの物には、それぞれ意味が込められています。 富士;見た目が美しい山は、人生そのもので、明るい未来が開けている。 鷹;運を爪でガッシリつかみ、開運や飛躍を意味する。 茄子;子宝や幸運の象徴(形が男根に似ているので)。 扇;「末広がり」なので、縁起がよく、「子孫繁栄」を意味する。 煙草;出世や栄達の象徴(理由不明。どなたか知っていたら、教えてください)。 座頭;目が開くのを見るのは、幸運とされている(座頭とは、簡単に言うと目の見えない人のこと)。 このような縁起が良い物、あるいは何かの象徴である6つのものが、「初夢に良い」とされたのです。 ちなみに、室町時代から、「良い夢を見る方法」と言うものが伝えられています。 その方法は、七福神の乗った宝船の絵に、「永き世の 遠(とお)の眠(ねぶ)りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな」と書き、それを枕の下に入れて眠る事です。 この「永き世の…」の一句は、よく読むと回文(上から読んでも下から読んでも同じ)になっています。 それでも悪い夢を見た場合は、この絵を川に流し、縁起直しをします。 なお、「初夢」とは、1月1日から、1月2日にかけて見た夢を指すので、お間違いないように。 参考文献;占いコラム・資料館【http://homepage1.nifty.com/mangetsu/bn/siryo/index.htm】 |
しりとりは、終わらない 言うまでもありませんが、「しりとり(尻取り)」とは、 「相手が言った単語の最後の一文字を取り、それを最初の一文字とする単語を言う」という子どもの遊びです。 そして、これも言うまでもありませんが、最後に「ん」がつく言葉を言ってしまうと、その人が負けになります。 その根拠たるは、「ん」で始まる言葉が無いから、に他ならないのですが…。 しかし、世の中には例外がつき物。実は、「ん」で始まる言葉も、この世には存在するのです。 ただしその言葉、どれも日本語ではないのですが…。 「ん」で始まる言葉、1つ目は「ンビラ」というアフリカの楽器です。 20cm程度の正方形に近い形の楽器で、見た目はおもちゃのピアノに似ています。 鍵盤の部分が金属のヘラで出来ており、それを指で弾いて音を出します。 また、円いンビラも存在します。別名は「サンザ」。 「ん」で始まる言葉、2つ目は「ンゴロンゴロ自然保護区」。 アフリカ、タンザニアの中央近くにある自然保護地域で、中生代に火山だったところです。 そこに形成されたカルデラ(火山の中心に出来た、ほぼ円形の窪地)が、ンゴロンゴロの正体。 「ンゴロンゴロ」とは、マサイ語で「大きな穴」の意味です。 総面積は約6475平方キロメートル。世界遺産にも登録されています。 「ん」で始まる言葉、3つ目は「ンジャメナ」。 アフリカのチャドと言う国の首都で、隣国カメルーンのすぐ近くにあります。 チャドで最も人口の多い都市で、1996年現在の人口は59万4000人。 残念ながら、2004年7月現在、日本からの直行便はありません。 このように、「ん」から始まる言葉は存在するので、しりとりで「ん」が最後に来ても、まだまだ続けられるのです。 …もっとも、「ん」と相手が言った時点で相手が負けるので、わざわざ続ける必要は無いのですが…。 参考文献;海外旅行 エイビーロードネット【http://www.ab-road.net/】 Zuvare Mbira【http://africa86.at.infoseek.co.jp/index.htm】 |
玉のようで、玉じゃない 文字には不思議な物が多く、「そっくりな字」と言う物が数多く存在します。 そのうちの1つが、「玉」にそっくりな常用外漢字。 そのものズバリ、「」と言う字が存在するのです。 要するに、「玉」をひっくり返した物です。 読み方は「キュウ」や「ク」。部首は「たま」です。 「玉」をひっくり返した字だけあって、その意味は「キズのある玉」。 他には、「玉に加工する人、玉細工の職人」と言う意味もあります。 「玉に加工する人」と言われても、ピンとこないかもしれませんが、こう言う事です。 そもそも「玉」と言うのは、今ではボールのように「丸い物」を指す事が多いですが、 元々は「宝石」など、高価な物を指す言葉でした。 ですので、その宝石を加工したり、首飾りにつけたりする、そういう人たちの事を「」と呼んだのです。 ただ、「玉」と「」はあまりにもそっくりなので、「これは同じ字だ」とする説もあり、詳しい事はよくわかっていません。 なお、「玉」が宝石を指す好例としては、「玉に瑕(きず)」があります。 この「玉」とは「宝石」の事で、「この瑕さえなければ、綺麗な宝石なのに…っ!」と言う意味です。 「瑕のある玉」…そう、要するに「」の事です。 機会があったら、「玉に瑕」の代わりに「」と書いてみたらいかがでしょうか? |
「人」と言う字は…? 「『人』と言う字は、2人の人間が支えあっている様子を示している」と言う有名なセリフがありますが、実際のところはどうなのでしょう? 「人」と言う字は、象形文字(しょうけいもじ)と言って、物の形をそのまま字にしたものです。 ではどの様な形を字にしたものなのでしょうか? この字は、「人間が立っている姿を、横から見た様子」なのです。 「甲骨文字」と言う、現在の漢字の原形となっている中国最古の文字があります。 そこには、「人」は「」と書かれています。 見ての通り、人を横から見た様子です(若干、姿勢がおかしいですが)。 この字の左側の腕が伸び、現在の「人」の形になったのです。 |
「婿」に「女」がついている理由 「婿」と言う言葉は頻繁に使われ、もちろん男性を指す言葉ですが、何故「女」がついているのでしょう? この謎は、国語辞書で「婿」を引くと、半分ほど解明します。 「婿」と言うのは、「娘の夫」又は「結婚して妻の家系に入った男性」を意味する言葉で、意味の中に「女」がまぎれているのです。 次に漢和辞典を引いてみると、「婿」と言うのは「女+胥(ショ)」であるとされています。 この「胥」には、「対をなす仲間」の意味があります。 また、「胥」の上の「疋」は、「足」の事で、足は「左右で1組」なので「対をなす」と言う意味を持ちます。 ですので、「女+胥」で、「女と対をなす仲間」、つまり「娘と結婚した男」となるのです。 ちなみに、「婿」と言う字は元々「壻」と書きました。 文字化けする可能性もあるので別な形で書くと、「士+胥」です。 この「士」は「男」を意味し、この場合の「胥」は「同居する」を意味します。 つまり、「同居する男」=「むこ」の意味を表すわけです。 話のついでですので、「嫁」と「婚」も解説しましょう。 「嫁」は「女+家」で、「女が、生まれた家を離れて相手の家へ行く」と言う意味。 「婚」は「女+昏」で、「昏」は「日暮れ」の意味。結婚式が日暮れに行われたところから、縁組みの意味を持ちました。 ところで、何故「婚」は女偏なのでしょうか? 「男+昏」や「士+昏」ではダメなのでしょうか? 実は、「女」と言う部首には、「女性」以外に「男女関係」と言う意味もあるため、「婚」にも女偏が使われているのです。 「男」は「田+力=田を耕す者」と言う意味の漢字であり、 「士」は「侍=男性」を表す部首なので、「男」も「士」も「男女関係」と言う意味を持っていないのです。 なお、「嫁」は「生家を離れて夫の家へ行く」なのに、「婿」は「娘と結婚した男」なので、若干女性蔑視気味ですが、 冒頭に書いたように「婿」には「結婚して妻の家系に入った男性」の意味もあるので、これで五分五分と言う事に…は、ならないでしょうか、やはり。 |
「a」の有無で、こんなにも意味が違う! 今回の雑学は、英語を既に習っている方対象です。 まず、次の2つの文章の違いを、考えてみてください。 (1)「This is my car.」 (2)「This is a my car.」 2つの文章を日本語にすると、どちらも「これはわたしの車です」となります。 ところが、(2)には、(1)にない「a」と言う単語が入っています。 実は、この短い単語1つで、2つの英文の意味が、まるで変わってくるのです。 「a」と言う単語の意味は、学校では「1つの」と習います。「a pen」と言えば、「1つのペン」です。 ところが、「a」という単語のちゃんとした意味は、「いくつかあるうちの1つ」と言う意味なのです。 「a」と言う単語がつく時は、その前提として、「同じ物(同じ種類の物)がいくつかある」と言う事が含まれているのです。 つまり、冒頭の2つの文章は、それぞれ、 (1)「これはわたしの車です(わたしは、これしか車を持っていません)」 (2)「これはわたしの車です(わたしは、他にも何台か車を持っています)」 と言う意味になるのです。 「a」の面白い用法としては、「a Mr.Sato」と言う物があります。 「Mr.Sato」と言えば「佐藤さん」ですが、「a Mr.Sato」と言えば、どうなるでしょう? これは、「(どこの誰だかわからないけれど、とにかく)佐藤さん」と言う意味になります。 「佐藤さん」と言う人はこの世にたくさんいますが、「そのうちの1人の佐藤さん」と言うのが、「a Mr.Sato」なのです。 逆に言えば、「Mr.Sato」と言うのは、「(どこの誰だかわかっている)佐藤さん」と言う意味になります。 「a」と言うたった1文字の単語ですが、そんな単語にも、これだけの意味が含まれているのです。 参考テレビ番組;新感覚★キーワードで英会話 |
四苦八苦って、どんな苦しみ? 非常に苦労する事を「四苦八苦」と言います。 四苦八苦と言うのは、仏教において、人生の8つの苦しみを示した言葉なのです。 まず最初の4つは、次の苦しみです。 「生きる苦しみ」「老いる苦しみ」「病む苦しみ」「死ぬ苦しみ」 この生・病・老・死の4つの苦しみに、残り4つを加えたものを「八苦」と言います。 「愛別離苦(あいべつりく)」…愛するもの(物・者)と、離れ離れになってしまう苦しみ。 「怨憎会苦(おんぞうえく)」…嫌いなもの(物・者)と出会ったり、結ばれたりしてしまう苦しみ。 「求不得苦(ぐふとくく)」…欲しいものを手に入れられない苦しみ。 そして8つ目が、「五陰盛苦(ごおんじょうく)」と言います。 「五陰(五蘊〔ごうん〕とも)」とは、人間の感覚と、心の4つの働きを合わせた5つの事。 1つ目は「色蘊(しきうん)」。人間の五感で感じる物質的存在です。 2つ目は「受蘊(じゅうん)」。何かを受ける心の働きです。 3つ目は「想蘊(そううん)」。何かを想像する心の働きです。 4つ目は「行蘊(ぎょううん)」。心の意思的な働きです。 5つ目は「識蘊(しきうん)」。何かを判断する心の働きです。 この何かを感じ、何かを受け、何かを想像し、何かを考え、何かを判断する働きから生まれる苦しみを、「五陰盛苦」というのです。 「四苦八苦」とは、 生・病・老・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦 の8つで表される、人生における苦しみを表す言葉なのです。 |
寝てみる夢と起きてみる夢。同じ字なのは何故? 夜、眠っている時に「現実の物?」として感じる物を「夢」と言います。 また、将来実現させたいと思っている事柄の事も、「夢」と言います。 一見全く別物に見える両者には、何故同じ字が使われているのでしょうか? さらに「人の夢」と書いて「儚い(はかな・い)」と読みますが、何故人の夢は儚いのでしょうか? 「夢」と言う字は、「+夕」で生まれた漢字です(の一番下の目が、夕に置き換わった)。 は「ボウ」と読み、「目がハッキリしない」と言う意味。そして「夕」は夜を表します。 この2つがあわさって、「夢」と言う漢字には「(明かりなどが)暗い」と言う意味が与えられたのです。 寝てみるユメの意味も、起きてみるユメの意味も、元々は持ち合わせていなかったのです。 寝てみるユメの意味を持つ漢字は、「」という漢字でした。 のウ冠は建物の屋根、ウ冠の左下はベッド(寝台)、右下は暗い、を意味し、あわせて「人が暗い屋内の寝台の上で見る物=ユメ」を表しています。 ところが、は難しい漢字ですので、この漢字に含まれる「夢(の、草冠の真ん中が抜けたもの)」に、の意味である「ユメ」が付け加えられたのです。 その字が時を経るに連れ、草冠の真ん中がつながって「夢」という漢字になり、「暗い」と言う意味と「ユメ」と言う意味を持つようになったのです。 「人の夢は儚い」なんてよく言いますが、「儚」と言う漢字の「夢」は、「ユメ」の意味ではなく「暗い」の意味なのです。 「暗いところにいる人」から「おろかな人」を表し、そこから「不安定である」「頼りない」そして「はかない」の意味が展開したのです。 では、「将来の夢」などと言う時の「夢」は、なんなのでしょう? 実はこれは、「夢」と言う漢字が日本に入ってきてから、日本人が勝手につけた意味なのです(これを「国訓」「訓」と言います)。 その昔、日本人は中国から入ってきた漢字に、次々と日本語を当てはめていきました。 「夢」と言う漢字には「暗い」から「明らかでない」と言う意味もあったため、「明らかではない事=未来の事」の意味がつきました。 なお、先ほど何度か「『夢』の草冠」と言いいましたが、「夢」と言う字の部首は草冠ではなく「夕」ですので、お間違いなく。 上の文章は、便宜上こう言っているだけです(ちなみに「儚」の部首は人偏です)。 |
「沈黙は金」は、「とにかく喋ろ!」の意味? 「沈黙は金」と言う言葉は、普段「黙っていた方が得である」と言う意味で用いられます。 ですがこの言葉は、本当はもう少し長い言葉でした。 元々は西洋の諺で、「沈黙は金、雄弁は銀」と言います。 「雄弁」とは「説得力を持って力強く喋る」と言う事です。 ところで、金と銀はどちらが価値が高いでしょうか? 現在では金ですが、この言葉が出来た当時は、銀の方が価値が高かったと言われているのです。 そのためこの言葉は、「金」である「沈黙」よりも、「銀」である「雄弁」の方が価値が高い…すなわち大切だ、と言う意味なのです。 |
蚊は鳴かないのに「蚊の鳴くような声」って? 小さな声や音の事を「蚊の鳴くような声(音)」と言います。 正しい諺は「声」の方で、ここから小さな音にも使うようになりました。 でも元々蚊は鳴かないのに、何故「蚊の鳴くような」などと言うのでしょう。 蚊は確かに鳴きませんが、音は出します。「羽音」です。 ここでいう「蚊の鳴き声」は、実は羽音のことなのです。 「蚊の鳴くような声」と言うのは、「蚊の羽音のような小さな声」と言う意味なのです。 …もっとも、耳元で蚊が飛ぶと、結構大きな音がしますが。 |
「のべ人数」の「のべ」とは? よく、イベントやお店の来客数を言うのに、「のべ○○人」と言います。 この「のべ」とはなんでしょうか、と言う話。 「のべ」は漢字では「延べ」と書きます。 「延べ人数」とは、「人を区別しないで、とにかく何人来たか」を表すものです。 例えば。あるお店に、1週間毎日違う人が1人ずつ来店したとしましょう。 すると、このお店の週間来客数は、「延べ7人」です。 一方、1週間毎日同じ人が1回ずつ来店したとしましょう。 この場合でも、このお店の週間来客数は「延べ7人」です。 来た人が同じだろうが同じじゃなかろうがお構いなしに、誰か来たら1人、2人…とカウントするのが「延べ」の意味です。 |
「愛」とは何か? 漢字は、その成り立ちから4つのパターンに分けることが出来ます。 1つ目は、「人」「木」「田」など、物の形を絵文字のように表した象形文字。 2つ目は、「一」「上」「末」など、形で表せない抽象的なものをイメージで表した指事文字。 3つ目は、「男」「林」「休」など、象形文字と指事文字を組み合わせて作った会意文字。 そして4つ目は、「花」など、音を表す部分(化)と意味を表す部分(草冠)で作られた形声文字です。 では、「愛」はなんでしょうか。 愛と言う抽象的なものを表すのだから、当然指事文字……と思いきや、これは象形文字を2つ組み合わせた会意文字なのです。 真ん中にある「心」と、それをはさむ「」の組み合わせです。 「心」は、人間の心臓を表した象形文字です。 「胸が高鳴る」など、心の動きを表すのに心臓の動きを表すのは、現代でも馴染みのあることです。 そして「」は、「後ろを振り返って、たたずむ人の姿」を表す象形文字です。 古代中国の人々は、この2つを組み合わせることで、 「立ち去ろうとするものの、立ち止まって後ろを振り返ってしまう気持ち」 を表し、「愛」としたのです。 離れようにも離れがたい気持ち、それが「愛」だと古代中国の人々は考えたようです。 愛に限定した表現ではありませんが、日本にも「後ろ髪を引かれる」という諺があります。 愛しているものからなかなか離れられない、という気持ちは、古今東西、変わらないのかもしれません。 参考文献;『漢字の気持ち』高橋政巳、伊東ひとみ/共著 |