心の働きやその他諸々に関する心理の雑学の部屋
知識の管理人;メビウス様

メビウス「いらっしゃいませ。心の働きやその他諸々に関する心理の雑学の部屋へ。
ここには、人間心理に関する、心理学的な知識が集められています。
ちょっとネタが少ないのか、更新頻度は驚くほど低い部屋ですが……」
メビウス「え、タイトルが単純過ぎやしないかって?
いえね、このタイトルはキグロさんが考えているのですが、
人体の部屋から順に決めていくもんですから、この辺に来るとネタが尽きるんですよ……」

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子どもの頭をよくする裏技 人はどのぐらい「野次馬」になりやすいか
子どもの性格は産まれた時から決まってる!? 人前で上がってしまうのは何故?
「必ず最後は愛が勝つ」を心理学的に見ると… 多数意見に反対できない理由は?
ふられた後、ヤケ食いをしてしまうのは何故か? 混んだ電車は何故居心地が悪いのか?
「美人」の基準は何歳で完成するか? 何故隅に座りたくなるのか?
何故夢を見るときと見ないときとがあるのか? 女性はやはり、美人が得か!?
「似た者夫婦」は実在するか? 心理学的「正しい叱り方」
仲の良し悪しはここで決まる! 誘拐犯人に恋をする…?
幸せになる精神病 玄関の目的は、「侵入を拒む」こと!
テスト前に「全然勉強してない」と言う理由 人込みで騒いだ後、なんとなくスッキリする理由
ヤクザや不良は、何故がに股なのか? 赤ん坊は、母親と父親を“使い分ける”!
「>―<」と「<―>」。線の長さが違って見えるのは何故か? おしゃべりな人を黙らせる裏技!
他人がいると、冷酷になる? 漫画『サザエさん』のカツオ君は、将来不良になる恐れあり!
弟妹は、何故ムカつくのか? 何故あの人を好きになるのか?
娘が父親を嫌いになる理由 男と女では、行動を取る際の「目的」が違う
男は負けを認めることができない 男は探し物を見つけることができない
「イヤよイヤよも好きのうち」は何故? 相手の気持ちを知る方法
愛は障害があるほど強くなる!? 女は何故おしゃべりなのか?
女は話し手、男は聞き手


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子どもの頭をよくする裏技
実は、こんな裏技が存在するのです(もちろん、心理学の面での)。
以前に、こんな実験が行われたことがあります。
いくつかの小学校で、学年末に知能指数判定テストを行わせました。
そして、そのテストの結果は完全無視し、ランダムに子どもを選び、その担任教師に「あの子は天才だ」と伝えました。
すると教師は当然、その子に対する接し方を、若干変えます。
そして、1年が経過した頃もう一度知能指数判定テストを行うと、なんとランダムに「天才だ」と言われた子は、知能指数が向上したのです。
この向上も、高学年ではほとんど向上しませんでしたが、低学年だと信じられないほど向上。
そう、実はちょっとぐらい成績が悪くても、叱らずに褒めると、なんと子どもの知能及び成績はアップするのです。
これは、子どもが褒められたり「頭がいい」と言われたことで「そうか、自分は天才なのか」と思い込み、本当にそうなっていくのです。
つまり、逆に「なんで出来ないの?」などと叱り続けると、子どもは「何故出来ないのか?」ではなく
「そうか、自分は出来ない人間なのか」と思い込み、本当に出来なくなってしまうのです。
年齢の低いお子さんをお持ちの方、十分ご注意ください。

人はどのぐらい「野次馬」になりやすいか
事件現場などがテレビで流れると、たいてい黒い人だかりが出来ています。
こう言った人々の事を「野次馬(やじうま)」と言うわけなのですが、
アメリカの心理学者・ミルグラムが、「人はどのぐらい野次馬になりやすいか」と言う実験を行っています。
路上に数人のサクラを使って反対側のビルを見上げさせていました(反対側のビルには、何もありません)。
この時、サクラにつられて一体何人の人が集まってくるか、実験をしたのです。
それだけではなく、ミルグラムは見上げているサクラの人数を変えて、サクラの人数によって集まる人数に変化があるかどうかも調べています。
結果はどうだったかと言うと、
サクラが2〜3人の場合だと、通行人の60%が
サクラが5人以上の場合だと、なんと80%の通行人が足を止めて反対側のビルを見上げたのです。
もちろん、サクラが初め2人でも、通行人が足を止めれば、見上げる人間の数は増えて行き、足を止める通行人も増えていきます。
この結果は、人間が飽くなき好奇心を持っていることを証明しています。
が、同時に簡単に操られる心を持っていることも証明しています。
わずかな数の人間で、大勢の人だかりをいとも簡単に作ることができる、と言うわけです。
お店などで使われるサクラも、こうした人間心理を巧くついているわけです。
そうだとわかっていても、ついつい近づいてしまう…人間心理は、本当に不思議なものなのです。

子どもの性格は産まれた時から決まってる!?
「子どもの性格は、親その他の環境で決まる」
これが、近年までの定説でした。
しかし、生物学的な研究が進むにつれ、どうも環境で決まるとは限らなさそうだ、と言う事がわかってきました。
わたし達の態度や好み、行動などを作りあげるのは、実はホルモンや脳の神経経路の働きが強いのです。
しかし、近年までの定説も、あながち間違いではありません。
性格とは、産まれたときから既に決まっているホルモンや脳の神経経路の働きプラス、周りの環境が複雑に絡み合い、性格を作っていくのです。
つまり、
「人の性格とは産まれたときにほとんど決まっているが、最後の仕上げは環境が行う」
と言うわけです。
細かいところは、「50%が遺伝、50%が環境」とか、「90%ぐらい遺伝で決まる」とかと、まだはっきりとはわかっていません。
ただ、環境に完全に左右される訳でも、産まれた時に完全に形成されている訳でもない、と言う事だけは言えるのです。

人前で上がってしまうのは何故?
なにかを発表するときや、面接のような場面で上がってしまい、思うように発言できなかったと言う経験は、誰にでもあることでしょう。
人前でとちったり、赤面したり、声や手足が震えたりといった状態は、極度の緊張から来る上がりの症状で、一種の「対人恐怖症」とも言えます。
さて、この上がりと言うのは、なぜ起こるのでしょうか? この正体は一体なんなのでしょうか?
一般に上がりやすい性格の人は、努力家でマジメ、潔癖で完全主義的傾向の強い人と言われています。
そのため、公の場に出ると「自分が失敗するはずがない」「と言うか人前で失敗したくない」と言う「動機づけ」が強くなってきます。
動機づけが強ければ強いほど、結果はよい物をもたらすと言われてはいますが、反面、強すぎるとかえって失敗しやすくなってしまいます。
同時に、上がりやすい人は、自尊心(プライド)、自意識過剰(「他人から見られている」と言う思いが多い)な面を持っている事が多いようです。
「見られている」「評価されている」との意識が過剰に働いてしまい、赤面したり、とちったりしてしまうのです。
人は他人と関わるときに、多かれ少なかれ自分を意識します。
自分が相手にとってどのような人物に見えるのかに、関心を持つわけです。
そのとき、そのことを無意識のうちに心構える…それが「自意識の高まり」です。
この自意識が高まると、同時に「羞恥感(しゅうちかん/はずかしい感じ)」が生まれてきます。
羞恥感の内容は様々ですが、「他人から注目され、評価される場面」から生まれる羞恥感は、「上がる・恥ずかしい・かたくなる・照れる」などといった緊張感や恥じらいの感情が中心となっています。
つまり、上がると言う現象は、「他人から注目を浴びていて、絶対に失敗できない!」と言う心理から来ているわけなのです。
ちなみに、上がらない方法を一つ。
上がるのは自意識過剰が原因ですから、これを下げてやればいいのです。
つまり、早い話がリラックス。「誰でも上がることはある」「失敗したって良いじゃないか」と自然に考えることです。
そして上がったり赤面しても、その場から逃げ出さないこと。上がりながらも自分を表現することを心がけるべきなのです。
「周りの人間はあなたが思っているほど、あなたを見てはいない」
このことを常に肝に銘じておく事が大事なのです。

「必ず最後は愛が勝つ」を心理学的に見ると…
まず先に、夢を壊されたくない人は見ないように。

さて、こう言ったセリフは歌やドラマなどでよく聞きますが、心理学的に見ると、本当のところどうなのでしょうか?
最初の一言でわかったと思いますが、そう、悲しい事に間違い、ということになっているのです。
マズローという学者の唱えた「欲求の発達階層説」によると、人間の欲求には5つの階層があるそうです。
順番は
1;生理的欲求(食べたい! 眠りたい!)
2;安全の欲求(平和志願!)
3;愛と所属の欲求(恋人が欲しい!)
4;承認と尊敬の欲求(周りの人に認められたい! 尊敬されたい!)
5;自己実現の欲求(夢をかなえたい!)
となっているそうです。
この中の1の欲求が満たされれば、2の欲求が生まれ、2の欲求が満たされれば3の欲求が生まれ……
と言うふうに、段階的に欲求が生じる、という説なのです。
ですので、3の愛と所属の欲求は、生理的欲求と安全の欲求が満たされて、初めて起こるものなのです。
つまり、どんなに恋人が欲しくても、食べたい時には食べたいし、寝たいときには寝たいのです。
「そんな説、愛で吹き飛ばしてみせる!」
と言う元気な方。その意気込みは5番目の欲求に当たります。よって、あなたは上の4つが満たされている事になるのです。

多数意見に反対できない理由は?
学校や会社の中で、周りの者が賛成しているから、あまり乗り気ではなかったのについつい賛成してしまった、とか、
初めは反対意見だったのに、周りの賛成意見を聞いているうちに賛成意見の方が正しいような気がしてきた、とかと言う経験は、誰にでもあるはずです。
このような、周りの雰囲気に自分を合わせ、思わず同じ事をしてしまう行為を、「同調行動」と呼んでいます。
この同調行動の実験として有名なものに、アメリカの社会心理学者ソロモン・アッシュの「三本の直線」と言うものがあります。
どういう実験かと言うと、被験者には「長さの知覚の研究」と説明して、一本の直線をグループ全員に見せます。
そのあと、長さの違う3本の直線の中から、初めに見せた同じ長さのものを選ばせます。
しかしこの実験には裏があります。
「長さの知覚の研究」と言うのは大ウソで、グループのうち、本当の被験者は1人だけ。他は全員サクラなのです。
そして、サクラ全員に最初に見せたのとは全く違う長さの直線を選ばせます。
つまり、わざと間違った回答をさせるわけです。
もちろん、本当の目の錯覚を調べる実験とは違って、普通なら1%以下の誤反応にとどまるような問題です。
しかし、サクラが次々に間違った答えをした後、本当の被験者に答えを聞くと、なんと75%がサクラと同じ答えをしたのです。
他のサクラの回答は間違ってると思いながらも、ついついつられてしまったわけです。
25%の被験者はサクラに同調しませんでしたが、それでも他の全員と自分の答えが違うことには不安と緊張を示し、
「目がかすんで困る」
などと独り言を言ったり、答える前に
「みんなの方が正しいのかもしれないが、自分の見た通りに言わなければならないので」
などと言い訳をする者もいたそうです。
これは、人間がいともたやすく自分の信じている事を信じなくなり、周りの雰囲気、意見などに流されてしまうことの証明になるわけです。
間違いかどうかハッキリわかるような事柄でさえ、同調行動がおこるわけですから、正解のない問題について、一人だけ周囲と意見が食い違った場合などは、もっと周囲に流されやすくなることは言うまでもありません。
ちなみに、ファッションの流行なども、この同調行動の一種とされています。

ふられた後、ヤケ食いをしてしまうのは何故か?
全ての生物は、欲求を満たすことで生きています。
野生動物などは、ほぼ常に「食べたい」と言う欲求で行動してますし、進化の基準も「食べたい」と言う欲求から来ていると言っても過言ではありません。
さて、こちらにもありますが、人間の「食べたい」と言うのも、「恋人が欲しい」と言うのも、欲求のうちの1つです。
生物は、ヒトも含めて常に欲求を満たそうと頑張っています。
そのため、「好きな人」に「ふられた」
つまり、「恋人が欲しい」と言う欲求を断念しなければいけない、と言う状況に面した時、ヒトはその「恋人が欲しい」と言う欲求を、別な物で埋めようとします。
ここまでくれば、もうわかるでしょう。
ふられた後ヤケ食いしてしまうのは、「恋人が欲しい」と言う欲求を埋めるために、「恋人が欲しい」と言う欲求を「食べたい」と言う欲求に変換し、大量に食べてしまうのです。
ヤケ食いが比較的女性に多いのは、おそらく女性の方が男性よりも「食べたい」と言う欲求が強いからなのでしょう。

混んだ電車は何故居心地が悪いのか?
混雑した電車やエレベーターなどに乗ると、別にぎゅうぎゅうづめ、と言うわけではないのになんとなく居心地が悪いことがあります。
他にも、ガラガラに空いている映画館などの中で、誰かが自分の隣に座ると、なんとなく居心地が悪くなることでしょう。
実は、人にはそれぞれ自分の体の周囲に他人の進入を拒む、「なわばり」のような物を持っているのです。
いまあげたような、様々な「居心地の悪さ」はこの「なわばり」に他人が侵入してきたことによっておこるのです。
この「なわばり」はいわば「自我の延長」。
心理学用語では、これを「パーソナル・スペース(直訳すれば「個人空間」)」と呼んでいます(この言葉は、これからも所々で出てくると思います)。
この空間領域は、人の行動や精神生活に様々な影響を及ぼしていて、このパーソナル・スペースの大きさはその人の性別、年齢、種族、性格によって多種多様なのです。
例えば、一般的に男性のパーソナル・スペースは女性より大きく、また大人の方が子どもよりも大きくなっています。
他には、内向的な人の方が外向的な人よりも大きい…などなど、あげればいろいろです。
さらに、相手によってもパーソナル・スペースは大きくなったり小さくなったりします。
親しい人と接するときは小さくなり、気を使う相手や嫌いな相手に対しては大きくなることが知られています。
親しい相手とならどんなに接近しても嫌な感じはしないのに、嫌いな相手に接近されると猛烈に嫌なのも、このためなのです。

「美人」の基準は何歳で完成するか?
心理学の実験では、たまに「外見が魅力的な女性とそうでない女性」をサクラにして行う実験があります。
しかし、こういう条件で行うと、一つ問題になるのが(女性からの不満は除いて)、「美人の基準は人によって違うのではないか?」と言うこと。
と言うわけで、「同じ国内、同じ文化圏内においては、美人の基準は同じ」と言うことを実証する実験が行われました。
ある幼稚園で行われた実験です。
実験と呼べるかどうかは微妙ですが、幼稚園生に「クラスの中で誰が一番好き?」と聞いて答えを集計したのです。
その結果、クラスの人気者ベストワンとなった子どもは、大人たちが「もっとも魅力的」、つまり言い換えれば「美人」と評価した子どもだったのです。
こんな風に、人の外見についての好みは、4歳から6歳ぐらいに出来上がり、そしてそれは大人と同じ価値観に基づいているようなのです。
では、その「魅力」とは具体的になんでしょう?
ここでそれを答えられればいいのですが、これをきちんと説明することはほぼ不可能でしょう。
その国のその文化圏における美人の基準…としか、言いようがありません。諦めてください。

何故隅に座りたくなるのか?
あなたはこんな経験ないでしょうか?
例えば電車に乗るとき、何故か7人がけの座席の一番端に座りたくなる…。喫茶店などで、壁際の席に座りたくなる…。
そして、いきなり中央付近に座ると、なんとなく落ち着かない…。
実はこれ、あなただけでなくほぼ全ての人間が共通して持っている習性なのです。
例えば、暗闇の中を手探りで歩く場合。
すぐそばに壁があるのと、壁が無いのとでは、壁がある方が安心できます。
壁がすぐそばにあると安心できるのは、自分の位置を判断する上で重要なよりどころになるからなのです。
なんの目標物もない大平原や砂漠を歩くと、本人はまっすぐ歩いているつもりなのに、いつの間にかに少しずつ進路が傾き、大きな円を描いて、いつの間にかに元の場所に戻ってきてしまいます。
人間とは、本来あまり広くて単調な空間が苦手な生物なのです。
しかし、壁に沿って歩けば、少なくとも道に迷うことはありません。
また、壁際ならば、少なくとも壁の側には、自分をを脅かす敵がいないと安心感があり、自分のなわばりを守りやすくなります。
つまり、壁の近くに寄りたくなる理由は、
「ある空間の中では、自分の位置を知り、また、なるべく他者に脅かされない場所を無意識に求める」
と言う本能があるからなのです。
ちなみに、「他人とかかわりあいを持ちたくない」「1人だけでいたい」と思っている人の76%は壁際の席を選び、
「自分たちのグループの席に、他人が同席するのを積極的に拒否する」と思っている人の79%が、部屋の奥の席を選ぶと言う調査結果があるそうです。

何故夢を見るときと見ないときとがあるのか?
人は寝ているとき、夢を見ます。
しかし、たまに「ちっとも夢を見ない」と言う人がいます。
これは、何故でしょうか?
実は、結論から言えば、精神的な病気にかかっていない限り、誰でも毎晩夢を見ているのです。
つまり、「見ない」と言う人は、夢を覚えていないだけなのです。
では、何故夢を覚えている人と覚えていない人がいるのでしょうか?
この疑問に答えを出すためには、まず、夢の実態を掴まなければなりません。
精神分析の祖と言われる、フロイト博士の考えによれば、「夢」とは、こういうものです。
我々人間の心の奥底には、密かな無意識の願望(フロイトは性欲と言っていましたが…賛否両論です)が渦巻いています。
目覚めている間は、意識がその願望をコントロール(抑圧)し、表に出していません。
しかし、ひとたび眠りに入ると、この抑圧が緩み、無意識の願望が活発化して、画像化・物語化されます。
ところが、「抑圧」は緩んだだけで、完全に無くなるわけではないので、そうした願望は夢の中でもストレートに表現はされません。
そのため、どんな願望が表現されているのか、ストレートにはわからない内容になっているのです。
そして更に、その願望(夢)の内容が、我々の意識をおびやかすものであればあるほど(つまり、現実の世界でやると危険なものであるほど)、
「意識」はその夢を、再び深層の闇に閉じ込めてしまいます。
つまり、「見たんだけと、覚えていると危険だ」と意識が判断したものが、「覚えていない夢」だと、フロイトは言ったのです。
「大金持ちになった夢」「麻薬を吸った夢」「何かのプロになった夢」…そう言った物は全て、その人物の欲望だ、と言うわけです。

女性はやはり、美人が得か!?
心理学的に、「女性は美人の方が得だ」と言う実験結果が出されています。
その実験とは、アメリカのシンガーと言う心理学者の行った実験です。
まず、192人の女子大生の写真を40人の大学教授に見せ、それぞれの学生の魅力度について、評価してもらいました。
そして、その評価を彼女たちの学業成績や性格の評価と照らし合わせる、と言う実験です。
すると、物の見事に、教授たちが「美人」と評価した学生の方が、明らかに成績も性格も良い…と評価されていることがわかったのです。
もちろん、容姿と成績が比例する、と言うことは本来ありえません。
要するに、教授たちは無意識のうちに、美人学生に対して「えこひいき」をしていたのです。
おまけに、大学の成績は、論文や面接などが中心ですから、教授たちが受けた印象が、もろに成績に出てしまうと考えられます。
更に、この現象は教授だけでなく、男子学生にも表れました。
つまり、美人学生の書いたレポートは好意的に解釈し、また美人の意見には説得されやすい傾向が見られることがわかったのです。
医者と素人では医者の方が信頼できるのと同様、美人の女性の方が「信頼できる聡明な人物」と言う評価を得やすいのです。
また、これは女性に限ったことではありません。
これはシンガーの実験ではありませんが、アメリカの400の学校の男性・女性教師たちを対象に、「子どもの写真一枚と、その子の成績通知表を見せて、どんな子どもか解釈させる」と言う実験が行われました。
この実験用の写真は、容姿が魅力的な子、普通の子、冴えない子、の3種類、様々な子どもの写真が用意されましたが、通知表の内容は実は全くの架空。
全く平均的な子どもの成績内容になっています。
こうした条件の下で、教師たちがその子たちをどう解釈するかを調べたのです。
するとその結果は上記の如く。外見が魅力的な子に対する好意的な評価が続出しました。
一方で、あまり魅力的でない子どもに対する評価は、非好意的なものがとても多かったのです。
しかもこの現象は、男性教師にも、女性教師にも同等に表れたのです。
ここから考えれば、「頭が良くてカッコイイ」奴は、本当はカッコイイだけで頭は良くないのかも知れなません…?

「似た者夫婦」は実在するか?
「似た者夫婦」と言う言葉があります。
これは、読んで字の如く、性格や好みなどがよく似ている夫婦のことです。
では、本当にこんな夫婦は、いるのでしょうか?
結論から言いますと、心理学上、理論的には存在しえます。
これは、「シンクローニー」と呼ばれる現象です。
夫婦は大抵の場合、同じ家に暮らし、長い時間、一緒にいます。
その間に、喜びや苦しみなどの喜怒哀楽を共にすることが多々あります。
そうすると、このシンクローニーが起こるのです。
どういうことかと言いますと、長い間共に生活をしていると、お互いの行動に無意識に共感し、相手に合わせるようになり、いつの間にかにお互いがお互いに近づいていきます。
そうすると、最終的には2人の行動が同じになってくるのです。
そのため、行動、仕草、性格、その他表情までもが似てくるのは、十分にありうることなのです。
他にも、風邪のようなウイルスや細菌など、感染する病気に夫婦どちらかがかかると、もう一方もかかりやすく、その確率は7割にのぼると言われています。
ただ、こうした現象は仲がよく、長く喜怒哀楽を共にしてきた一部の夫婦に多いといわれ、それ以外ではあまりいない、とのことです。
どっちかが働いてばかりでほとんど家にいないなど、そういった家庭では、このような現象は滅多に起こらない、と言うわけです。

心理学的「正しい叱り方」
高校野球では、こんなシーンがあります。
監督が、エラーをした生徒を自分の所へ呼びつけて、相手の目をじっと見ながら注意を与え、それが終わると生徒の肩や背中をポンと軽くたたいて送り出す…。
一見、なんでもないシーンですが、実はこれ、心理学(正確には「近接心理学」)の観点からすると、実に理にかなった叱り方なのです。
ポイントは3つ。
第一に、叱る相手を自分の近くに呼びつけること。
第二に、相手としっかり視線を合わせること。
第三に、叱った後で相手の体に軽く触れたこと、です。
1つずつ見ていきましょう。
第一のポイント。叱る相手を近くに呼びつけること。
人は、自分より立場が上の人間や、強そうな人間の近くに寄ると、逃げられないような緊張感を覚えます。
例えば、説得する時なども、相手に近づいて熱心に説得すると、成功する確率が高くなります。
これと同じように、相手の精神をしっかりとこちらに向けることが出来るのです。
第二のポイント。相手としっかり視線を合わせること。
この行為は、相手の気持ちを注意そのものに集中させることができるのです。
例えば、子どもに物語を読み聞かせるとき、「子どもの目をしっかり見ながら話してやると、しばらく経ってもその物語の内容をよく覚えていた」と言う研究データがあります。
これと同じように、目を見て叱ると、相手の意識にちゃんとその内容が入るのです。
つまり、「馬の耳に念仏」状態にならない、と言うわけです。
第三のポイント。叱った後で相手の体に軽く触れたこと。
体に触ると、触った相手によい印象を与えられるということが、アメリカの実験で証明されています。
複数の人に「初対面の人物(どんな人物なのか全くわからない人)」と「目隠しして握手するだけする」ときと、「顔を合わせるだけ」のときとでは、その相手の印象がまるで違うのです。
握手だけした人は、相手が「あたたかくて信頼できる人」「大人らしくて、感覚の鋭い人」など、良い評価を出しました。
しかも、48%の人が、再会を望んだのです。
それに対し、顔を合わせただけだと、「冷たくて横柄な人だ」と悪評を下したのです。
相手の体の一部に触れる、『タッチング』は、自分の感情を最も正確に伝えるコミュニケーションだと言われています。
生徒を叱りっぱなしだと、「監督は冷たい人だ」と思われかねませんが、叱った後で軽く背中などを叩くと、
「厳しく叱られたが、それは監督の愛情からなのだ」
と言うように、その印象がガラリと変わるのです。
この3つの原則は、監督と選手以外にも、親と子、先生と生徒、上司と部下などの関係にも当てはまるものなのです。
この三原則を守って叱れば、相手に自分に対する悪い印象を持たせず、かつ相手をキチンと叱ることが出来るのです。

仲の良し悪しはここで決まる!
どんな人にも、仲の良い人と悪い人とがいます。
この区別は、どのような理由で出来てくるのでしょうか?
アメリカの心理学者フェスティンガーたちは、大学の学生寮を使ってこの問題についての調査を行いました。
被験者は、新たに入寮する男子学生17人。全員、お互いに初対面です。
この時、入寮前に、あらかじめ全員に政治や宗教についての態度調査も行われました。
そして、入寮してから6ヶ月間にわたる調査の結果、次の2つのようなことがわかりました。
1;初めは、互いに自分の部屋に近い人同士が仲良くなる傾向が見られる。
2;そして次第に、考え方や生活態度の似ている者同士がグループを作り上げていく。
つまり、距離が近く、互いに接する機会が多ければ多いほど、早く仲良くなれますが、
もう1つの要素として、「似た者同士」であることが親密な友人関係にとって、非常に重要だ、と言うわけです。
ちなみに、この「1」を「近接の要因」、「2」を「類似性の要因」と言います。
実際、「友人同士は性格も似ている」と言うことを示す実験結果も報告されています。
ただし、似ているといっても決して同じ、と言うことはありえません。
このような友人間では、むしろ互いに自分達を実際以上に「似ている」と思い込んでいるのでは、と考えられます。
特に、自分が「こうありたい」「こうであって欲しい」と思っている性格特性(性格の特徴)に関しては、よりこの傾向が強いことがわかっています。
自分にとって理想的な「友だち像」を、実際の友だちに勝手に投影している、と言うわけです。
例えば、「自分は優しい性格だ」と思っていると、友だちが実際にはそうでなくても、「アイツも優しい」などと勝手に思い込んでしまうのです。
もちろん、これは当の本人にとって、場合によっては迷惑な買いかぶりだったりする場合もあるのですが、初めから似ても似つかないタイプの人に対しては、こうした心理作用は働きません。
思い込みだろうとなんだろうと、「似ている」と言うことが、友人関係を築きあげる際に、かなり重要な点であることには、間違いありません。
また、こうしたことは友人間のみならず、男女の間でも起こることがわかっています。
つまり、「近くに住んでいる人や、職場が同じと言う人間同士は恋人になりやすい」と言う近接の要因や、「似たもの同士はカップルになりやすい」と言う類似性の要因がある、と言うことです。
近接の要因については、アメリカのボッサードと言う人が詳しい研究を行い、
「お互いに住んでいる場所が近ければ近いほど2人が結婚する可能性は高くなり、離れていれば離れているほどその可能性は急激に薄れる」
と言う結論を出しています(これを、「ボッサードの法則」と言います)。
家の離れた婚約者同士は破綻しやすい、と言うデータもあるようです。
また、類似性の要因も、アメリカでの実験によると、
「スポーツへの興味などの趣味や体格、性格などに差がありすぎるカップルはうまくいかず、共通点の多いカップルほど結婚している」
と言う結果が得られています。
が、完全に似ているからといって、上手くいくとは限りません。
これもアメリカの心理学者、ウィンチと言う人の調査ですが、彼は25組の夫婦を対象に、面接調査を行いました。
それによると、夫婦関係が上手く行っているカップルは、
1;支配的な夫と、服従的な妻(またはその逆)
2;援助好きな夫と、援助を求めたがる妻(またはその逆)
などの関係に当たる場合が多かったと言います。
この研究結果から、彼は「相補仮説」と唱えています。
これは、いま挙げたような「支配的な人と服従的な人」「甘えん坊と世話好き」「リーダー格と下っ端格」などと言うように、互いに補い合う性格の組み合わせほど上手くいく、と言う説です。
言い換えれば、「支配的な人同士」「甘えん坊同士」など、同じ性格の持ち主同士は、逆にうまくいかない、と言うことです。
離婚したカップルのその離婚理由は、「性格の不一致」が最も多いらしいですが、実のところ、むしろ「性格の一致しすぎ」と言うカップルの方が、多いのかも知れません。
結論を述べると、
「互いに近くにいて、性格が似ている者ほど仲良くなり、それは男女間でも当てはまる。ただし、あまりに似すぎていると、結婚後長続きしない」
と言う事になりそうです。

誘拐犯人に恋をする…?
「誘拐された女性が、男性の誘拐犯人を好きになる」
一見すると、とても奇妙なこんな現象が、過去に何度も起こっているのです。
この現象は、「ストックホルム症候群」と呼ばれ、1973年に初めて症候群と認定された物。未だにナゾが多い症候群です。
このストックホルム症候群。一体、どんなものなのでしょうか?
この語源ともなった、1973年にスウェーデンのストックホルムでの事件を例に、説明しましょう。
1973年、ストックホルムの銀行が強盗に襲われ、犯人は数人の人質をとって銀行に立てこもりました。
警察と何度も衝突し、人質が解放されたのはなんと1週間後。
しかし、やっと解放すると、人質の様子がおかしかったのです。
普通ならば憎んでいるはずの犯人に対し、好意的な、まるでかばうかのような証言をしたのです。
それだけでなく、感謝するはずの警察に対して、侮辱するような発言を繰り返しました。
そして更に、事件が解決すると、人質のうち1人の女性が、犯人と結婚。
これが、最初に有名になったストックホルム症候群です。
この1週間の間、銀行内では通常ならば考えられないような事が起こっていました。
人質達は始めはもちろん犯人を恐れ、怖がり、恐怖に打ち震えていました。
しかし、数日が過ぎると、徐々に全員が犯人に慣れてきて、ついには立てこもりに協力するようになったのです。
犯人の代わりに銃を握り警察を威嚇し、犯人と雑談を繰り返し、笑いあう。
しまいには、人質女性の1人が犯人に愛を告白するほど、彼らは打ち解けあってしまったのです。
何故このようなことが起こるのでしょうか?
一説には、犯人との接触時間が長い、と言うことが言われています。
ストックホルム症候群になる事件は、必ずと言っていいほど、犯人との接触時間が長い事件です。
初めは「殺される!」と思って犯人を恐れていた被害者も、犯人に食べ物などを貰うにつれ、「なんだ、生かしてくれるんだ」と言う気になってきます。
すると、「殺される!」と言う緊張は一気にほぐれ、ウソのようになくなるのです。
また、「殺されないためには、犯人に気に入られればいい」「1人で怖がるぐらいなら、犯人と少しでも会話したい」とも考えてくるのです。
そうすると、犯人と積極的にコミュニケーションをとろうとします。
人間はもともと集団生活をし、コミュニケーションをとる動物です。
そういった意味で、人がコミュニケーションをとるのは全く不思議なことではありません。
しかし、それが特殊な場となると、事態は思わぬ方向へと進んでいくのです。
人は、他人との会話の中で相手を知り、相手を知ると親密感がわき、親密になると信頼感や連帯感、「固い絆」的な物を覚えてきます。
こうしたことで、お互い「誘拐」や「監禁」「立てこもり」と言った状況を共に生き抜いてきた「仲間同士」のように思い合ってしまうのです。
こうして、犯人も被害者も、お互い相手に対して奇妙なまでの「連帯感」や「同情心」などを抱いてしまうのです。
これらは「トラウマポンド」と呼ばれるもので、これが「恋愛」などに発展して行ってしまうのです。
ストックホルム症候群については、まだわかっていないことはたくさんあります。
「生存のための手段」「恐怖を忘れるための手段」など色々と諸説はありますが、詳しいことはよくわかっていません。
また、ストックホルム症候群の出た事件はまだまだ他にもあり、日本で起こった症例もあります。
あの有名な「新潟女性長期監禁事件」です。
1990年11月に起こった、当時小学3年、9歳の少女が新潟県内で突然行方不明になり、
約10年後の2000年1月28日、19歳になった“少女”が、犯人宅の2階に監禁されていた所を保護された、と言う事件です。
1階には犯人の母親もおり、少女は逃げようと思えばいつでも逃げ出せました。
しかし、少女は9年2ヶ月間、一切逃げ出すことはありませんでした。
「一体、何故逃げなかったのか?」
その質問に、少女自身答えることはできません。
これが、「ストックホルム症候群」です。
なお、この病気。
この紹介だけすると、「PTSDなんて、心の弱い、人に頼りやすい依存性の強い人の病気だろ?」と言う意見を持つ人が多いようです。
実際、アメリカではこのような意見を持つ人が、少なくないようです。
しかし、実際には全くの逆。
本当は、心の強い人…「強くて、何事にもへこたれず、自立心の強い、明るくはつらつとした人」が発病しやすいものなのです。
そんな、なんでも自分1人で解決しようとする人が、命に係わるような体験でさえも、人に頼らず、自分で解決しようとしたために、心が爆発。
そして発病してしまうケースが非常に多いそうです。
もちろん、被害状況や被害後の対処法、他のトラウマや家庭環境などが作用するので、一概にこうは言えませんが…。
参考文献;PTSD.info【http://www.angelfire.com/in/ptsdinfo/new.html】

幸せになる精神病
この世には、様々な病気が存在します。
その数は、実に100万を超えると言われ、精神病もまた、多くあります。
さて、そんな多くの病気の中に、こんな変わった精神症候が存在します。
その名は「多幸症」。
これは、読んで字の如く、「幸せがいっぱい」になる病気。
これだけ言われてもピンと来ないかと思いますが、大して難しい意味ではありません。
つまり、「身の回りが全て上手く行っていて、自分は幸せだと思いこみ、少し現実離れした状態」になる病気が、この多幸症なのです。
しかし、実際には別に幸せではなく、本人がただそう思っているだけ。
「感情障害」と言う分野に分類されており、ヒステリーや鬱(うつ)などと同じ分野の病気です。
主な原因としては、老人痴呆(ボケ)や、脳疾患、脳への外傷やガン、アルコール中毒などが挙げられています。
本人は幸せだと思っているのに、それが病気とはなんとも奇妙な話ですが、広い世の中にはこういう病気も存在するのです。
参考文献;精神科ノート【http://xakimich.hp.infoseek.co.jp/psychiatry/psychiatry-note.html】

玄関の目的は、「侵入を拒む」こと!
「玄関」は、当たり前ですが「住居の入り口」です。
この「住居」。心理学的には、「なわばり」と言う考え方をします。
つまり、「玄関」は「なわばりの入り口」となるわけですが…。
実は人は、玄関で人は知らず知らずのうちに「ある儀式」を行っているのです。
それは、「なわばりへの侵入を許可する」儀式。
玄関の役割りと言うのは、実は心理学的には「人を迎える」事ではなく、「侵入を拒むこと」なのです。
そして、来訪者はドアをノックしたり、チャイムなどを鳴らすなどして、玄関を開けてもらい、相手のなわばりへ侵入する許可を乞うのです。
「家」と言うのは、個人にとって最も強力ななわばりです。
そこに入れてもらうわけですから、それ相当の手続きが必要となるのです。
アメリカで、こんな実験が行われました。
ニューヨーク市と、そこからだいぶ離れた小さな地方都市で行われた実験です。
ごく普通の身なりの中年の男性、あるいは女性が、
「道に迷って困っているので、電話を貸してください」
と、家々を訪問します。
このとき、電話を貸してくれるかどうかを調べたのです。
結論から言うと、「玄関のドアはなかなか開かれないものだ」と言うことがわかりました。
ニューヨーク市では、男性の訪問者の場合は12%、女性の訪問者の時には40%の住人が、電話を貸してくれました。
一方、小さな町では、男性の訪問者の時は40%、女性の訪問者の時にはなんと100%の住人が電話を貸してくれたのです。
しかも、ニューヨークで市はたいていの住人がドアを閉めたままで訪問者の用件を聞いたのに対し、
小さな町の住人は、たいていドアを開けて応対したのです。
玄関のドアは、大都市の方が開かれにくいこと、特に男性の訪問者に対しては開かれにくい、と言うわけです。
これは犯罪が大都市で多いことと、男性による犯罪が多いこと、などの理由によるのではないかと考えられています。
玄関の目的は「侵入を拒む」事であると言うことが、良くわかる一例。
この事を考えると、知らない人に道を尋ねたり、何かを頼む際は、女性にその役目を引き受けてもらった方がよさそうです。

テスト前に「全然勉強してない」と言う理由
テスト直前になると、必ず飛び交うセリフが、「全然勉強してな〜い!」と言うもの。
それでいてちゃっかり勉強していて、ちゃっかり良い点取っちゃう人も多いようですが…。
さて、年齢・性別その他ほとんど関係なくテスト前に飛び交う、この「勉強してない」宣言。
実はこれ、心理学的に説明のつく行動なのです。
「自分はダメな奴だ」と思った事のある人は、そう少なくは無いでしょう。
しかし、人間はやはり自分が可愛いので、「ダメな奴だ」とは思いたくはありません。
それでも、何か物事に取り組んで失敗すると、落胆し、「ダメな奴だ」と思い込んでしまいます。
そこで、人間の脳は無意識のうちに、「ダメな奴だ」と思わないように伏線を張っておくのです。
物事に全力で取り組み、失敗すると、もう立ち直れません。言い訳も利きません。
では、どうするばいいでしょうか?
そう、物事に全力で取り組まないようにするか、「全力で取り組んでいないんだ」と無意識のうちに暗示をかけるのです。
もちろん、本人は意識してはしていませんが、脳の奥では、「自分は全力ではない、自分は全力ではない」と暗示をかけているのです。
しかし、それで自己満足は出来ても、無意識のうちに、周りの人間の目を気にします。
つまり、「『あいつは全力で取り組んだのに失敗した。ダメな奴だ』と思われてしまうのでは?」と思ってしまうのです。
そこで脳は、今度はそれを防ごうとします。
その為に必要な事はただ1つ。
「周りの人間に、『自分は全力ではない』と言う事を知らせる」
これだけです。
つまり、「自分は全力ではない」と周りにアピールする事により、失敗しても、周りから「ダメな奴だ」と思われていない、と自己満足をするわけです。
そして、その行動として現れるのが、最初に書いた「全然勉強してな〜い」。
もし、「俺は勉強しまくったぜ!!」と言って失敗すると、周りからは「ダメな奴」と思われてしまう、と脳は考えます。
その為、真偽はともかく自分は本気ではないという事をアピールするために、「勉強してない」と宣言するのです。
こうすれば、もし失敗しても、「勉強してなかったんだから」と言い訳が利きます。
なので、テスト直前になると必ず「勉強してな〜い」と言うセリフが飛び交うのです。
ちなみに、この様に「全力で取り組んでいない」と暗示をかけ、さらに周りの人間に対してもそれを強調する行動を、
「セルフ・ハンディキャッピング」
と言います。

人込みで騒いだ後、なんとなくスッキリする理由
大勢の人がやっていると、自分もやりたくなる、あるいはやらなければならないような気になる、と言うことは誰もが経験しているでしょう。
そして、もし大勢の人がやっている事と違う事をやっていると、神経が太い人でもなければ、「なんとなく」不安を覚えるはずです。
大勢の人と同じ行動をしていると、人は「こんなに大勢の人々と同じ事をしているのだ」と言う安心感や連帯感を覚えるからです。
さらに、「大勢の人と同じ行動をする」と言うのは、心を活性化させる働きもあります。
例えば、閑散とした遊園地の、誰もいないジェットコースターに1人で乗っていても、おそらく誰も騒げないでしょう。
演劇やコンサートなどでも、「客が少ないため盛り上がらない」と言うことはよくあること。
逆に、観客が大勢いると、始まる前から異様な盛り上がりを見せ、当然、一度始まればものすごい興奮状態を生み出します。
そして、その興奮状態の中では、人は自分の意思で行動する必要が無くなります。
それどころか、半強制的に周囲と同じ行動をとります。
コンサート終了時の「アンコール」や、プロ野球での「ウェーブ」。
誰が始まりかわかりませんが、誰かがやると、全員がそれに釣られ、一斉に同じ行動を取り始めるのです。
日ごろ自分を縛り付けている理性をふっ飛ばし、周囲の行動に合わせて、手を叩き、立ち上がり、踊り、叫ぶ…。
このような行動は、自分で考えて行う必要がほとんどありません。
つまり、何も考えずに行動でき、楽しめるのです。
何も考えずに「パーッ」とできるのですから、これはまさに、ストレス解消に持ってこいの状況。
このような状況の中で人々は興奮し、燃え上がるのです。
そして、この時の「燃え」が人には忘れられません。
そのため、人々は率先して自ら「人込み」に入り込み、疲れてヘトヘトになるのです。
このような、ひしめき合う事である種の興奮状態に陥る、と言う心理は、人にとって旧石器時代からおなじみの事。
現代にまで残っている旧石器時代の洞窟は、物々交換や生活のための場だけではなく、
狭い洞窟に人々が集まって、宗教的な興奮を高めるためにあった、とも言われています。
言われてみれば当たり前ですが、人込みの中で騒いだあと、なんとなくスッキリするのは、
理性をふっ飛ばして、何も考えずに思いっきり暴れたため、ストレスが解消されたから、と言う事なのです。
ただし、この興奮状態が度を過ぎると、何らかのごたごたに発展する危険性もありますので、ご注意を。

ヤクザや不良は、何故がに股なのか?
街を歩く不良や暴力団、ヤクザなどは、見ただけでそれとわかります。
もちろん、服装や顔つきなどもありますが、歩き方にも特徴があります。
それは、肩をやけに動かし、足はがに股にして、ノッシノッシ(?)と歩く事。
実はあの行動。心理学…と言うよりは、動物行動学で説明する事が出来るのです。
突然ですが、動物たちが敵に出会ったとき、まず行う事はなんだか、わかりますか?
答えは、「威嚇(いかく)」。
ネコやイヌは毛を逆立て、カエルは口を膨らませ、カマキリはカマを持ち上げ、ハネを広げる…。
その他、多くの動物たちが、威嚇行動をします。
何故そんな事をするかと言うと、そうすることで相手を一瞬ひるませ、戦って勝てる相手かどうかを見極めるためです。
動物たちは基本的に、無駄な殺生や負ける戦いはしませんので、もし戦う価値がないと判断した場合は、一目散に逃げさるのです。
そして、この動物たちの威嚇行動には、全部に当てはまるかどうかは知りませんが、ある共通点があります。
何かと言うとそれは、「とにかく自分を大きく見せる事」。
代表的なのはエリマキトカゲでしょうか。
敵と出会うと、まず真っ先に自分の首にあるエリマキのような膜を広げ、自分をものすごく巨大な生き物に見せかけます。
ネコが毛を逆立てるのも、カエルが口を膨らませるのも、カマキリがハネを広げるのも、全て同じ理由です。
人間を含めた動物の本能には、実は「大きい=強い」と言う方程式が成り立っているのです。
そのため、相手に自分を大きく見せる事で、「自分は強いんだ! 戦うと怪我するぜ!」と無言で圧力をかけ、
その隙に逃げるか、あるいは、敵にとっとと去ってもらうのです。
そして、それは同時に、冒頭の「歩き方の特徴」にも、当てはめる事が可能なのです。
ああやって歩く事で、自分をより大きい生き物だと周りに主張します。
人間を含めた動物には、「君子危うきに近寄らず」…つまり、「強いものには近寄るな」と言う本能があります。
そのため、不良たちはああやって歩く事で、周りに見知らぬ人間=敵を近づけないようにしているのです。
また同時に、「暴力犯人の多くは、自分の近くに見知らぬ人間がやって来る事を、ひどく嫌う傾向にある」と言う実験結果もあります。
アメリカの精神医キンゼルは、些細なことで因縁をつけて暴力を振るう人間は、一般人より「パーソナル・スペース」が広いと言う事を、明らかにしました。
「パーソナル・スペース」とは、「個人空間」などとも呼ばれる、一種のなわばりのようなものです。
人間は、この空間内に見知らぬ人間が入ってくる事を、ひどく嫌います(詳しくは、「混んだ電車は何故居心地が悪いのか?」参照)。
キンゼルは、刑務所内の暴力的な囚人8人と、非暴力的な囚人8人のパーソナル・スペースを、それぞれ調べました。
実験方法は、囚人に向かって実験者が接近し、囚人が「止まれ!」と言う合図を出した位置を、パーソナル・スペースの大きさとする、と言うものでした。
その結果、暴力的な囚人のパーソナル・スペースの平均は、約164cm
一方、非暴力的な囚人のそれは、およそたったの80cm
つまり、暴力的な囚人の方が、非暴力的な囚人より、4倍もパーソナル・スペースが広かったのです。
しかも、非暴力的な囚人のパーソナル・スペースは一般人同様、前方が広かったのに対し、
暴力的な囚人のそれは、逆に後方の方が広かったのです。
つまり、背後から接近する相手に対して、非常に敏感だったのです。
こうした理由から、いわゆる不良たちは、自分を大きく(=強く)見せ、見知らぬ人間(=敵)が接近しないようにしているのです。

赤ん坊は、母親と父親を“使い分ける”!
これは、生物共通の考え方ですが、生き物と言うのは、みな、「自分を守る」方向へと、動こうとします。
そのため、まだ理性がほとんど無い赤ん坊(乳児)では、母親と父親に対して、実に面白い行動を見ることが出来るのです。
こんな実験が行われました。
母親、父親、そしてその2人の赤ん坊に、1つの部屋に入ってもらいます。
母親と父親を、それぞれ離れた別の場所(例えば、部屋の奥の両隅など)に配置します。
その後、両親から離れた場所まで赤ん坊を連れて行き、そこで赤ん坊を放します。
さて、赤ん坊は、母親の元へ行くでしょうか? 父親の元へ行くでしょうか?
この実験の結果は、その時の部屋の状況によって、大きく変化しました。
まず、部屋が明るく、赤ん坊が安心できるような状況の時。
赤ん坊は迷わず母親の元へ駆け寄り、母親にしがみ付きました。
しかし、部屋を薄暗くするなど、赤ん坊が不安になるような状況を作ると、結果は一変。
赤ん坊は、一目散に父親の方へと駆けて行ったのです。
この現象は、こんな風に考えられます。
そもそも、赤ん坊から見た場合、母親、父親とは本来、どういう存在でしょうか?
赤ん坊にとって母親とは、自分を優しく抱き上げて母乳をくれる…「ご飯をくれる存在」なのです。
一方、赤ん坊にとって父親とは、昼間は狩りでいないけれど、夜になると帰って来て、寝床を守る…つまり「自分を守る存在」なのです。
そのため、赤ん坊が安心できるような状況では、生物の本能である「食」を求め、母親の元へ駆け寄るのですが、
何か危険を察知すると、「安心」を求め、父親の元へ駆け寄るのです。
このようにして、赤ん坊は、ある意味では両親を“使い分け”て生きているのです。

「>―<」と「<―>」。線の長さが違って見えるのは何故か?
まず、この画像を見てください(ブラウザのバックボタンで戻ってください)。
画像を見る
よく見かける、いわゆる「騙し絵」で、「ミューラー=リヤー錯視」と呼ばれる物です。
左側の「外開きの線」と、右側の「内開きの線」。
どちらも長さは同じですが、このように描かれると、「外開きの線」の方が、長くなっているように見えます。
これは何故でしょうか、と言うのが今回の話。
イギリスの心理学者グレゴリーは、この現象を、こう説明しています。
まず、日常で目に出来る、あのような光景は一体どこでしょうか。
左側の「外開きの線」が目に出来る場所と言えば、四角い部屋の中。
そこで部屋の中央に立ち、角を見ると、ちょうど、あの左側の「外開きの線」のように見えます。
「外開きの線」の上下の開いた部分が、天井と壁、床と壁の境界線。そして、真ん中の線が壁と壁の境界線です。
一方、右側の「内開きの線」が目に出来る場所と言えば、外から見たときの建物の角。
外から建物の角を見ると、地面と建物の境界線と、建物の一番上の部分の線は、遠くに行くにつれ、徐々に近付いていきます。
そして、真ん中の線が、2枚の壁の境界線となります。
どちらも、典型的な遠近法を思い出していただければ十分です。
「外開きの線」は、真ん中が遠くにあるように見えるよう、遠近法を用いた絵。
「内開きの線」は、左右が遠くにあるように見えるよう、遠近法を用いた絵。
つまり、「外開きの線」は奥に、「内開きの線」は手前にあるように見えるのです。
しかし、この2本の線は、どちらも長さが一緒です。
遠くにある物と、近くにある物が同じ大きさの時、普通は、「遠くにある物の方が大きい」と考えます。
そのため、「遠くにある(と思ってしまう)線」=「外開きの線」は、「近くにある(と思ってしまう)線」=「内開きの線」より、長い線のように見えてしまうのです。
こうした理由から、同じ長さの「外開きの線」と「内開きの線」が並んでいると、「外開きの線」の方が長く感じてしまうのです。
しかし、この説明だと「では何故横向きでも同じ現象が起こるのか?」と言う質問に答える事ができないため、まだまだナゾが多い、とされています。

おしゃべりな人を黙らせる裏技!
どこにでも、「おしゃべりな人」と言うのはいて、こちらの話など全く聞かず、延々と喋り続けます。
何か意見を言いたくても、その人のペースに引き込まれて、こちらの意見がほとんど言えない…。
しかし、こんな「おしゃべりな人」を黙らせる、心理学的な裏技が存在します。
それが、「相手の話に一切の反応をしない」と言う事。
つまり、「うなずいたり、あいづちを打ったりしない」と言う事です。
1964年、マタラッツォと言う人が、ある役所の採用試験で、20人の志願者に対し、こんな実験を行いました。
この試験では、45分間の面接がありましたが、面接担当者は、
最初の15分間は、ごく普通の態度で志願者の話を聞く
次の15分間は、しきりにうなずきながら話を聞く
最後の15分間は、うなずくのを全くやめる
と言う応対方法をとったのです。
こうして、それぞれの時間帯、志願者が1つの発言を何秒ぐらい続けたかを調べました。
その結果、意識的にうなずく回数を増やすと、志願者の発言の持続時間は、5割から、多い人は7割も増加し、40秒から1分間近く話し続けていました。
反対に、全くうなずくかないでいると、明らかな時間減少が確認できました。
つまり、多くうなずけば、相手は多く話し、全くうなずかなければ、相手は少ししか話さないのです。
相手の言葉に対しうなずく事は、「相手に、さらに話し続けるよう要求するサイン」として解釈されています。
と言う事は、相手からたくさん話を聞きたい場合は、自分の反応の数を増やし、
逆に相手を黙らせたい時は、反応を一切止める。
これを意識的に行えば、さりげなく、会話の主導権を握る事まで出来てしまいます。
もっとも、本当におしゃべりで、相手の反応なんか気にしない人に、どこまで通用するかは、実際やってみないとわかりませんが。
なお、別の研究によれば、「頻繁にあいづちを打ったり、うなずいたりする人は、それをしない人より好かれる」とも言われています。
つまり、相手に好かれたければ、頻繁に相手の話に反応するとよいのですが、
相手があまりのおしゃべりで、うんざりしていたとしても、あからさまに無反応になると、嫌われる可能性があるのです。
もちろん、逆に言えば、嫌われたければ黙っていればいい、と言う事でもありますが…。
うまく使いこなして、是非とも相手の気持ちと会話をコントロールしてみてください。

他人がいると、冷酷になる?
過去、こんな事件がありました。
ニューヨークのクイーンズ地区で起こった、「キティー嬢事件」と言う事件です。
20代後半の女性キティーに、1人の暴漢が襲いかかりました。
この時、地区の住民38人が、キティーの悲鳴を聞いて窓を開け、顔を出したのです。
犯人は、明かりがついた事や、住人の声がした事から、2度、襲撃を中止しました。
しかし、3度目の襲撃で、犯人が女性を殺害。
この間30分もあったにも関わらず、誰も女性を助けたり、警察に通報したりしませんでした(しかも、死亡後に通報したのも、たった1人)。
果たして、この人たちは冷淡で、残酷な人々でしょうか?
実は、このように「目撃者が大勢いたにも関わらず、誰も何も行動を起こさなかった」と言う事件は、さほど珍しい事ではないのです。
この事件を受け、アメリカの心理学者、ラタネとダーリーが、ある仮説を立てました。
「目撃者たちは、38人もいたのに通報しなかったのではなく、38人もいたからこそ通報しなかったのではないか?」
この仮説を証明するため、4986人もの人々に参加してもらい、ある実験を行いました。
実験に参加した人々は、予定の時間にある大学へ来ると、部屋へ案内されました。
そこで、実験者から説明を受け、市場調査のアンケート用紙に記入し始めます。
ところが、開始から4分ほどたった頃、突然、隣の部屋からイスの倒れる大きな音と、女性の派手な悲鳴が聞こえてきます。
ここで、アンケート用紙に記入をしている実験参加者たちは、果たして女性を助けに行くか否か? これが、調べられたのです。
すると、実験参加者が1人きりで部屋にいた場合には、60秒を過ぎるまでに、7割弱の人が女性を助けようと行動を起こしました。
しかし、実験参加者が他の人と一緒にいて、しかも他の人が何も行動を起こさない場合、60秒経っても、女性を助けようとする人は1割もいなかったのです。
つまり、行動を起こそうとしない人が周りにいると、自分自身が行動を起こす割合が下がってしまった、と言うわけなのです。
これにより、「目撃者が大勢いたのに助けなかったのではなく、大勢いたから助けなかった」と言う事が、証明されたのです。
この実験終了後、女性を助けなかった人に、何故女性を助けなかったのか聞いたところ、
「何が起こったのか良くわからなかった」「大した事ではないと思った」「誰か他の人が助けに行くだろう(行くはずだ)と考えた」
などと答えています。
松井豊と言う人が、一連の実験結果を元に提唱したモデルによると、緊急事態に遭遇した時の人の思考内容は、こうです。
例えば、自分の目の前の人が、突然胸を押さえて倒れたとします。
この時、人はまず「この人は援助を求められているのか」「自分はこの人に関わるべきなのか」などと言ったことを、短時間で検討します(これを「一次的認知処理」といいます)。
(ただしこの時、「かわいそう」と言う共感や、驚き、恐怖などが出ると、「どうすればいいのか」と考える行動プランの検討が、妨害されやすくなります)
そして、そのうち人は、「この人を助けるべきである」と言う意識(「規範的責任感」)が高まってきます。
しかしこの時、同時に、「自分が危険な目に遭うのではないか」「事件に巻き込まれたりしないか」と考え、得か損かの検討もなされます。
するとたいていの場合、「助けない」方向に人は向いてしまうのです。
ただし、なんの要因もないのに助けないと、ただの冷酷な人間になってしまいます。
人は、自分が冷酷だとは思いたくないので、なんとか「助けない理由」を探そうとするのです。
これを「防衛的再検討」と言うのですが、この時、周りに大勢の人がいた場合、人は「あの人たちの誰かが助けるだろうから、自分は助けなくてもいい」と考えてしまうのです。
冒頭の事件の場合、目撃者にとって、自分の周りには37人もの人間がいます。
これだけいると、「あの人たちの誰かが助けるだろう」と考えてしまうので、誰も行動を起こさなかったのです。
このような現象を、心理学(社会心理学)では、「社会的制止」と呼んでいます。
また、その逆に、「周りの人たちが行動を起こしたのを見て、自分も起こす」と言う現象を、「社会的促進」と呼んでいます。
これらは何も、緊急事態に限った事ではなく、日常的に目にできるものです。
例えば、学校や職場で、周りの人間がだらけていると、自分もだらけてしまうのは社会的制止ですし、
逆に周りの人間が積極的に授業を受けていたり、仕事をしていたりすると、自分も積極的になるのは、社会的促進です。
実は人は、何か行動を決定する際、周りの人間に影響されてしまう事が、非常に多いのです。
ちなみに、冒頭の事件のように、周りに大勢の人がいる中で、暴漢に襲われてしまった時、誰かに助けてもらうには、どうすればよいでしょうか?
今まで述べてきたように、この状況では、誰かが助けてくれる可能性は、とても低くなります。
アメリカの心理学者チャルディーニが、こんな方法を提唱しました。
群集の中で襲われた場合。誰か1人を即座に選び、その他の人は完全に無視します。
その人だけを見て、その人だけに話しかけるのです。
そして「そう、あなたです。そこのブルーのジャケットを着ている方、助けてください。警察と救急車を呼んでください」などと言います。
周りに大勢人がいると、誰も助けようとしない理由は、「助けない理由」を簡単に作れるから、と説明しました。
ですので、逆に言えば、「助けない理由」を作れない状況にしてしまえば、その人は助けざるを得なくなってしまうのです。
「ブルーのジャケットを着ている方」と言う事で、まず、「救助をする責任が自分にある」と理解させます。
そして「助けてください」と言う事で、「救助を必要としている」と言う事も理解させます。
さらに「警察と救急車を呼んでください」と言う事で、「何をすればいいのか」と言う事も理解させるのです。
こうすると、「助けない理由」を作る事が難しくなるので、その人は、すぐに助けようと行動を開始してくる、と考えられるのです。
もしあなたが群集の中で誰かに襲われた時。
「相手を指定する」「助けを必要としている事を伝える」「何をすればいいのかを伝える」の3点を、思い出して下さい。

漫画『サザエさん』のカツオ君は、将来不良になる恐れあり!
いまだに有名な昭和の4コマ漫画といえば、長谷川町子さんが描いた『サザエさん』。
この漫画は、サザエさん一家の住む磯野家を中心とした物語です。
そのサザエさんの弟・カツオ君ですが、実は、心理学的に、「将来不良になる恐れがある」と分析する事ができます。
その理由は、磯野家の間取りにあります。
長谷川町子さんは、昭和60年に東京・世田谷区に美術館を立て、そこに、磯野家の間取り図を展示した事があります。
その間取りによると、玄関を入るとすぐ目の前がカツオとワカメの部屋。
そして廊下を少し進むと茶の間があり、曲がるとサザエとマスオ、タラの部屋となっています。
この間取りで気付く事は、「子ども達が、家族の誰にも気付かれずに、家から出入りできる」と言う事。
「これが良くない」と言うのが、心理学の主張です。
静岡大学の外山知徳さん(住居学)と、静岡県立病院の杉浦一枝医師(精神科)の2人が、
「子ども達の登校拒否や家庭内暴力の発生と、家の間取りは、関係している」
と発表しました。
この「家の間取り」で重要な事は、居間(磯野家の場合は茶の間)です。
居間は、家族全員が集い、家族の人間関係を培う場所。
家族全員が「暇な時、なんとなく」居間に集まる、と言うのが、心理学的に理想的な居間の使用法なのです。
こうすれば、家族全員が顔を合わす機会が増え、会話も盛んになります。
人には、「会えば会うほど好きになる」と言う心理があります(「単純接触の原理」や「熟知性の原則」などと言われます)。
家族間のコミュニケーションが多くなればなるほど、家族に対する好意が強くなるのです。
しかし、居間に家族が集まらない場合。
この場合は、家族間の会話が減り、「単純接触の原理」が起こらなくなり、家族に対する好意感が得られません。
そのため、家庭内暴力などに発展してしまう…と言うのです。
そうしないためには、家族が自然と居間に集まるように、家を設計する必要があります。
大きなポイントは2つ。
1つ目のポイントは、「全員の個室が、居間の近くにある」と言う事。
居間と個室が離れていると、個室から居間へ行く、と言う動作が、非常に億劫になってしまいます。
しかし、居間と個室が近ければ、大して体力を使わずに居間に行けるので、家族が集まりやすいのです。
2つ目のポイントは、「居間を通らなければ個室にいけない」と言う構造にする事です。
この構造だと、出かける時や帰って来た時、必ず居間を通る事になります。
すると、居間に馴染みができるし、何より家族と顔を合わす頻度が高くなり、自然と会話が生まれるのです。
では、話を磯野家に戻してみましょう。
磯野家では、1つ目のポイントはクリアしていますが、2つ目のポイントがクリアできていません。
しかも、カツオとワカメの部屋から玄関までが非常に近く、外へ出るのに大して体力を使いません。
つまり、カツオ君は、いつでも好きな時に、家族に気付かれずにコッソリ家を出入りする事ができる、と言う事。
すると、カツオ君と家族間の会話が減って行き、カツオ君が不良になる恐れがある…と、結論できるのです。
ただ、磯野家の場合、底抜けに明るいサザエさんが、人間関係を円滑にしているので、
この推察通り、カツオ君が本当に不良になる、とは少し考えにくいですが…。

弟妹は、何故ムカつくのか?
兄姉にとって、弟妹と言うのは、ムカつく存在です。
もちろん、個人差はありますが、「ムカつく存在」と感じている人が、多いようです。
しかしこの現象は、小学生ぐらいに多く、中学、高校と進むと、だんだん少なくなっていきます。
では、そもそも何故、弟妹はムカつくのでしょうか?
実はこの原因は、父母にあるのです。
例えば、長男と次男の場合で考えてみましょう。
まず初めに、両親にとっての第1子である、長男が生まれます。
1人しか子どもがいないため、当然両親の愛情は、長男1人に注がれます。
長男はそのうち、両親の愛情をたった1人で受けるのが、「当たり前」と感じるようになります。
しかし、今度はそこに、第2子、次男が誕生します。
すると当然、両親の愛情は、長男ただ1人ではなく、次男にも注がれる事になるのです。
さらに、生まれたての子どもは手がかかるため、両親の目は、長男より、次男の方に強く注がれます。
初めは弟の誕生に喜んでいた長男も、次第にこの事に気がつきます。
すると長男の目には、次男が、「自分から両親を奪った奴」として映ってしまうのです。
そしてここに、「ムカつく」と言う感情が発生します。これが、弟妹がムカつく理由なのです。
ちなみにこの時、長男は、両親の目を次男から自分に向けさせようとして、様々な策をとります。
そのうちの1つが「退行」と呼ばれる現象で、
これは例えば、1人で服を着れるようになったり、1人でトイレに行けるようになったにも関わらず、
それが出来なくなる(やらなくなる)事です。
長男は、自分を生まれたての赤ん坊ほどに「退行」させ、両親の目をこちらへ向けさせようとしているわけです。
また、折り紙を上手に折るなど、何かをやり終えたあと、「自分がやった」と、やたら「自分が」を強調する現象も起きます。
これも、自分を強調する事で、両親の目を自分に向けさせようとしているわけです。
第2子が生まれた途端、第1子が、いままで見せなかった行動を取るようになる事がありますが、
それらは、この理屈で説明できる場合があります(もちろん、全てではありませんが)。
両親にとって、「第2子の誕生」と言うのは大きなイベントですが、第1子にとっては、強烈なイベントなのです。

何故あの人を好きになるのか?
仮に、いまあなたに好きな人がいるとしたら、相手の事が何故好きなのか、説明できるでしょうか?
説明できる人と説明できない人、両方いると思いますが、本来は、説明できないものなのです。
では、何故人は、特定の人物を好きになるのでしょうか。
この答えはまだ完璧には出ていませんが、有力な説として、「恋愛遺伝子」と言うものがあげられています。
そもそも「人を好きになる」とは、どういう事でしょう?
それは、「子孫を残し、『ヒト』と言う種を永続させる」と言う本能があるために起こる現象なのです(この本能を、「種族保存本能」と言います)。
つまり、「永続させる」のに有利な人を見つけると、その人を「好き」になるのです。
では、どう言う相手が、種を永続させるのに有利なのでしょうか?
過去、それはもう数え切れないほどの生物たちが死に、数え切れないほどの種が絶滅してきました。
その原因は、寿命もありますが、「外敵に殺される」「病気で死ぬ」と言う事の方が多いのです。
裏を返せば、「外敵に殺されない」「病気で死なない」ならば、種は絶滅しにくいのです。
そこで、生物は、「いま目の前にいる相手」と自分との子どもが、「外敵に強いか?」「病気に強いか?」を考えるのです。
例えば、自分が「足が遅い」「風邪に強い」と言う2つの特徴を持っているとします。
足が遅ければ外敵に殺される可能性が高くなりますし、風邪に強ければ風邪で体調を崩して死んでしまう可能性が低くなります。
このような時、目の前にいる相手が「足が速い」「風邪に弱い」と言う2つの特徴を持っていると、相手を好きになり、相手も自分を好きになるのです。
何故なら、この2人の子どもが、「足が速い」「風邪に強い」と言う2つの特徴を持つ可能性があるからです。
もちろん、場合によっては「足が遅い」「風邪に弱い」と言う子どもが生まれてしまう可能性もあります。ここは運です。
とにかくこのように、生物は「なるべく自分の短所を補い、長所を活かせる相手」を望むのです。
ここで、先ほどの「恋愛遺伝子」が出てきます。
恋愛遺伝子とは、実は体の免疫機能を司っている遺伝子なのです。
免疫機能が強ければ、当然病気になりにくくなりますし、病気になりにくければ、病気で死ぬ確率も減ります。
つまり、「種を永続させやすい」のです。
よく、「フェルモン」と言う言葉を聞きますが、フェルモンはこの恋愛遺伝子が出しているものだ、と考えられています。
生物は相手のフェルモンを嗅ぎ、自分と相手の子どもが「種を永続させやすい」相手かどうかを見極めるのです。
人間の場合、「お金をたくさん持っているか」や「地位はどのぐらいか」など、本能だけではなく理性も含めて相手を選ぶので、単純に恋愛遺伝子だけで全ての恋愛を説明する事はできませんが、
一目惚れして好きになった相手は、ほぼ確実に恋愛遺伝子の影響と考えられます。
ですので、冒頭の「何故相手を好きなのか説明できる人」と言うのは、本来は存在しないはずなのです。
では、何故この人たちは、それが説明できるのでしょうか?
大雑把に言うと、それは「こじつけ」や「思い込み」です。
「人を好きになる」など、感情的な事は、全て右脳が司っています。
一方、左脳は、論理的な事を司っています。
右脳が人を好きになった時、左脳は、「何故好きなのか」を論理的に考え始めるのです。
つまり、「理由」があって「好きになる」のではなく、「好きになった」あとに「理由」を考えるのです。
もちろん言っている本人には「こじつけ」の意識はありませんが、無意識のうちに、左脳が勝手に理由をひねり出しているのです。
…と、これを恋人に説明して、その後どうなっても、当館の管理人および住人一同は責任を負いませんので、あしからず。

娘が父親を嫌いになる理由
「娘が父親を嫌いになる」と言うのはよくある話。実はこれ、日本だけではなく、世界共通の事なのです。
では、何故娘が父親を嫌いになるのでしょう?
この事は、本能で説明できます。
生物には、「子孫を残す」と言う本能があります。
これは言い換えると、「自分の種族を未来永劫絶やさない」となります(これを、「種族保存本能」といいます)。
種族を絶やさないためには、できる限り「強い」子どもをもうける必要があります。
それには、「自分とは遺伝子があまり似ていない相手」を選んだ方が、効率的です(詳しくは「何故あの人を好きになるのか?」参照)。
ところで、「自分の父親」と言うのは、遺伝子的に見て、どの様な存在でしょうか?
子どもは、自分の両親から、両親の遺伝子を半分ずつ受け継いで生まれてきます。
つまり、自分と父親は、半分が同じ遺伝子なのです。
もしこの2人の間に子どもが生まれたら?
似たような遺伝子を持つ者同士の子どもは、あまり強い遺伝子を持ちません。
そのため、あっという間に死んでしまい、種が絶滅してしまう恐れが大きくなってしまうのです。
そこで、子どもが出来ないように、娘は本能的に父親を嫌いになり、父親を遠ざけようとします。
これが、娘が父親を嫌いになる理由なのです。
なお、息子が母親を嫌いになる理由も、全く同じ理屈で説明できますし、
兄妹(姉弟)間で子どもが出来る事がほとんど無いのも、こうした理由によるものです。

男と女では、行動を取る際の「目的」が違う
これはどういうことかと言うと、簡単なことです。
例えば、男性がトイレに行くとき、その目的は「用をたす」と言う一つしかありません(他にあっても、せめて手を洗う、顔を洗う、ぐらい)。
一方、女性にとってトイレは社交ラウンジであり、セラピールームでもあります。
極端な話、おたがい見ず知らずで入った者同士が、出てくるときには親友や生涯の友になっていたりします。
しかし、男性にはこんなことはありえません。
何故なら、男性にとってトイレとは「たった一つの目的を果たすための場所」でしかないからなのです。
別の例をあげてみましょう。
例えば、外食するとき。
男性に取って、外食の目的はただ一つ。「メシを食う」。これに尽きます。
しかし女性の場合、「相手との親睦を深める」「家族の団らんを作る」「なにかを買って行く」等など、様々な目的が生じます。
他の例では、買い物があります。
男性にとって、「買い物」の目的は「物を買う」と言うことのただ一つ。
これに対して女性にとって「買い物」は、「様々な商品を見る」や「親睦を深める」等のいろんな目的があります。
そのため、衣服を買いに行ったのに、女性が服を吟味して試着しただけで終わると、男性は非常にイライラします。
「いったい、なんのために買い物に来たんだ」と言う怒りが、男性の中に芽生えてしまうのです。
男と女とでは、実はこれほどの違いが生じているのです。

男は負けを認めることができない
女性にとっては「何故?」と思えるような事かもしれませんが、実は男性は負けを認められないのです。
一番良い例としては、道に迷ったときでしょう。
道に迷ったとき、女性ならすぐさま近くの人に道を尋ねますが、男性は道を尋ねることは負けを認めるに等しく、同時にそれはとんでもない「屈辱」ともなり、どうしても尋ねられないのです。
1人の場合ならいざ知らず、誰かと一緒…特に、女性(恋人)と一緒の時は、もう絶対に聞けません。
その理由は、はるか昔、縄文時代までさかのぼります。
縄文時代、人間はまだ狩りをして生活をしていました。
「狩り」で「負ける」と言うことは、それは「死」を意味します。
仮にそこで死ななくとも、家に帰っても食べ物がなく、家族そろって餓死することになってしまいます。
そんな生活が何千年、何万年と続いたために、いつしか男性は「負けを認める」と言う行為が出来なくなってしまったのです。
ですので、道に迷ったときも何時間もむなしく動き回って「ここは見覚えがあるぞ!」とか「このあたりのハズなんだけど…」などと口走るのです。
「なんでそこの人に聞かないの!?」などと言わずに、こんな男性の気持ち、察してあげてください…。

男は探し物を見つけることができない
結婚して数年経っていれば、一度はこんな会話を交わしたことがあるでしょう。
夫が冷蔵庫の前に立ちつくし、「バターはどこだ?」と聞いてくる。
妻は「冷蔵庫の中でしょ」と答えますが、それでも夫は「見つからない」の一点張り。
そこで妻が冷蔵庫の中を覗くと、一瞬でバターを取りだします。
男性にとって、これは手品も同然。
女性にとっては、「なんでこれが手品なわけ?」とか「なんで見つけられないの?」言った感じでしょうが、そうなのです。
女性にとっては目の前にある物でも、男性にとってはそれが「見えない」のです。
女性は視野が広いので、引出しや食器棚にあるものを一目で見渡せます。
しかし、男性は視野が狭いので、上下左右に首を振らない限り、目的の物は目に入らず、「見えない」のと同じ状態になってしまうのです。
何故こんな風になってしまったかと言うと、その理由ははるか昔へとさかのぼります。
はるか昔、縄文時代。男は狩りをし、女は育児をしていた時代。
男が獲物を獲るためには、その「獲物」のみに焦点があえばなんら問題はありませんでしたが、女の仕事は「育児」でした。
育児をするには、どうしても視野を広くし、全ての子どもの動きに焦点を合わせていなくてはいけませんでした。
こう言った違いから、女性は視野が広くなり、男性は視野が狭くなっていったのです。
男性は手元を見るのは不得意だと言うことを知っていれば、女性はかなりのストレスを防げるはずです。
男性の方も、「食器棚にある!」と女性に言われたら、素直にそれを信じた方が、身のためなのです。

「イヤよイヤよも好きのうち」は何故?
「イヤよイヤよも好きのうち」と言われます。
好きなのに「嫌い」などと言うのが典型的な例で、心と行動がかけ離れているのがわかるかと思います。
人間の心理は実に不思議で複雑で、何故そんな行動を取ってしまうのか、当の本人ですらわかりません。
このようなことを、心理学では「反動形成」と呼んでいます。
反動形成は、一種の「自己防衛」の手段とされています。
人は無意識のうちに、本来の要求や本性、本音と言った者を自分自身で知っています。
ただ、それが人間の醜い部分であったりすると、表に出すのをためらってしまうのです。
「これを言ったら嫌われるかもしれない」
そう考えてしまうと、自分へのマイナス評価が出る前に、本能的に自分をかばうようになるのです。
「自分を傷つけたくない」と同時に「相手も傷つけたくない」「相手に好かれたい」といった心理が絡み合って、こうした反動形成に出てしまうのです。
例えば、「会いたいのに『会いたくない』と言う行為」。これで説明しましょう。
「毎日会いたい」と言って「シツコイ女だ」と思われ、嫌われてしまうのを防ぐために「もう会うのはやめましょう」と言ってしまうのです。
また、好きな女の子をいじめて泣かせてしまう、あるいは気になる相手に向かって、わざと気の無いフリをしてしまう…などというのも、反動形成の一種なのです。
ただ、本当に嫌いだから正直にイヤだと言っていることもあります。
男性に取って、その区別が非常に難しく、悩むところなのです…。

相手の気持ちを知る方法
「目は口ほどにものを言う」などと言われます。
目だけはウソをつかない、と言う意味です。
この目ですが、実は相手の目をよく観察すると、相手が自分のことをどう思っているかがわかるのです。
光の加減によって、瞳(ひとみ/瞳孔〔どうこう〕)が大きくなったり小さくなったりすることはよく知られています。
明るいところでは瞳孔は縮まり、暗いところでは逆に大きく開かれます。
しかし、瞳孔は感情によってもその大きさを変えるのです。
同じ明るさの下でも、なにかに興味をそそられたり、興奮を覚えたりすると、瞳孔は大きくなるのです。
アメリカの心理学者ヘスは、ひょんなことから、光の量以外でも瞳孔の大きさが変化することに気付きました。
ヘスの妻が、部屋は十分明るいのに「瞳孔が大きく開いている」とヘスに言ったことがヒントになりました。
そのとき、ヘスはお気に入りの写真集を見ていたのです。
「人の瞳孔は関心の度合いによって大きくなったり小さくなったりする」
この仮説を証明するために、ヘスは次のような実験を行いました。
5枚のスライド写真を1枚ずつ映写して見せ、被験者の瞳孔を毎秒2枚のペースで撮影しました。
ここで使われた写真は「赤ちゃん」「赤ちゃんと母親」「男性ヌード」「女性ヌード」「風景」の5枚。
それぞれ10秒ずつ映すので、1カットで得られる瞳孔の写真は20枚前後。
常時の瞳孔の大きさもチェックし、それを基準に、開けばプラス、縮めばマイナスとして瞳孔の大きさをパーセントで表しました。
瞳孔が大きく開いたのは、男女とも異性のヌード写真のときでした。
また、赤ちゃんと母親の写真では、女性は男性ヌード以上にプラスに反応。
赤ちゃんだけの写真にも拡大を示しました。
しかし、両者とも男性は目立った変化はありませんでした。
風景写真にいたっては、男女とも反応は小さく、特に女性の場合はマイナスの反応を見せています。
男性は赤ちゃんの写真には特に反応しなかったと言いましたが、これには続きがあります。
後に既婚で子持ちの男性となれば、瞳孔は大きく開くようになることがわかったのです。
顔の表情なら誤魔化すことはできますが、瞳孔はそうはいきません。
無意識のうちの意識をものの見事にさらけ出してしまうのです。
好きな人と話している時などに、相手の瞳孔をじっと見てみましょう。
大きければあなたに興味あり、小さく見えるなら興味なし、です。

愛は障害があるほど強くなる!?
こんな、調査結果があります。
同じ宗教の信者同士で結婚したカップルと、異なる宗教の信者同士が結婚したカップルとで愛情得点を比べてみたところ、
異教徒同士のカップルの方が得点が高かった…つまり、こっちの方が愛が強かったのです。
いったい、何故でしょう?
これは、ある心理学者が見出したことを用いれば、簡単に説明がつきます。
その心理学者は、「愛した者同士が親の反対で無理やり仲を引き裂かれる」と言う状況の下では、
その「親に反対されている」こと事態が、恋人同士の愛情をますます高める可能性があることを見出したのです。
もちろん、反対するのが親でなくとも、あるいは人でなくとも、「引き裂かれる」と言う状況ならば、結果は同じです。
すなわち、先の異教徒カップルは、「異教徒」と言う事による周囲の反対が、2人の愛情を強めたわけです。
この現象、あのシェークスピアの名作にちなんで、「ロミオとジュリエット効果」と名付けられています。
恋を成就させようとするカップルの前に障害が立ちはだかると、そうした障害に対抗しようとする情熱が、相手に対する愛情の強さと勘違いしてしまう場合があるのです。
こうなると、もう冷静に「本当にこの相手は結婚相手としてふさわしいか?」と言うことを考えることが出来なくなってしまうのです。
そのため、後になって落ち着いてみたら、相手の容姿やら性格やらが恋愛中に自分が思っていたのとは似ても似つかなかったりして、急速に2人の仲が冷え、あっという間に離婚…となってしまうこともあるのです。
こんなとき、反対した親は「それみたことか」と言いたくなるかもしれませんが、実は頭ごなしに反対することで子どもの気持ちを仰いだ親の方にも、責任がないとは言えないのです。

女は何故おしゃべりなのか?
「女はおしゃべりが好き…」
これは全世界に共通する事項であり、男にとって不思議でたまらない物です。
何故女はしゃべり続けるのでしょうか?
その答えは、脳にあります。
実は、男と女では、脳内の発話をコントロールする部分の能力が、まるで違うのです。
男の脳は、実は発話をコントロールする部分が一つに決まっておらず、話すときは脳の大部分を使って話しています。
一方、女の脳は、発話をコントロールする部分が左脳の前部と、右脳の小さな領域の大きく2か所しか使っていないのです。
ならば男の方が話し続けるのでは? と思いがちですが、そうではありません。
脳の大部分を使うと言うことは、すなわち、喋っている時は喋る事しか出来ない、と言うことなのです。
女は、喋りながら相手の言うことを聞き、また更に別な話題に耳を傾けつつ、男をなじることが出来るわけです。
一方、男は脳の大部分を使って話しているため、話すか、聞くかのどちらかしか出来ず、そんな脳から見ると、女はお喋り魔に見えるわけです。
また、これはもちろん生まれたときから決まっているので、言葉を話せるようになるのは、男の子よりも女の子の方が早く、国語の成績も、小学校低学年ぐらいだと、女の子の方が抜群にいいのです。
女の子に話しかけるとハキハキと様々なことを話すのに対し、男の子に話しかけてもなんとなく口ごもって、二言三言しか話さないのも、こういった理由からなのです。
これは思春期を迎えると更に差が開き、やはり面接などでは女子の方がハキハキと質問に答えることができるようです。
男女のお喋りの違いについては、まだまだ特筆すべきことは大量にありますが、全部書くと非常に長くなるので、今回はここまでです。

女は話し手、男は聞き手
人の行動は、性によってもだいぶ変わりますが、今回もそのうちの1つ。
男女間での会話の場合、男性と女性では、視線の使い方が微妙に違う事が、わかっています。
まとめてみると、次のようになります。どれも、相手に好感を持っている場合の事です。
1;「男が話し、女が聞いている」時よりも、「女が話し、男が聞いている」時の方が、お互いに目を合わせている。
2;相手の姿が見えない時には、男は発言量が多くなり、女は口数が少なくなる。
3;男は相手から「話したい」と言う合図を受けるまで話し続け、女は「話してもよい」と言う合図を受け続けないと話せない。
つまり、女性は好きな男性が言葉なり視線なりで相槌をうってくれないと、うまく話すことが出来ない、と言う事。
相手の姿が見えないと口数が少なくなるのは、相槌をうってくれているのかいないのか、よくわからないからです。
一方で、男性は相手が話さないと話し続ける代わりに、聞いている時の方が、視線を合わせる=より好感を持つ、と言う事になりそうです。
元々、男は言語能力に劣り、女は言語能力に長けています(「女は何故おしゃべりなのか?」参照)。
そうした所から、このような事が起こるのでしょう。
「女は話し手、男は聞き手」と言うのは、こうした意味から、理に適っていると言えなくもないのです。
…かといって、喋る女、黙る男がモテるかと言うと、一概にそうも言えませんが。
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