ネタとしては最もウケる常識の雑学の部屋
知識の管理人;マドー=ブキセット様

マドー=ブキセット「よく来たな。ここはネタとしては最もウケる常識の雑学の部屋だ。
いわゆる『常識』が、『実は間違ってるんだぞー』と主張する雑学を主に集めてある」
マドー=ブキセット「この類の雑学は、誰かに話した時に一番驚き度が高い物だな。
ま、意外にネタが少ないのか、更新頻度は低いけどな」
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万有引力の発見のきっかけはリンゴではなかった!?
江戸時代の大名(特に徳川家)の食事は豪華じゃない?
鎌倉幕府成立は、いい国(1192)ではなかった!? シンデレラはガラスの靴を履いていなかった!?
縄文人は米を食べていた!? オーケストラに指揮者はいらない!?
東大の赤門は学びの門じゃない!? 慶応義塾大学は実は京都にもあった!?
植物が会話する!? 闘牛は赤色に反応しない!?
ありがとう=サンキューではない!? テレフォンはもともと電話ではない
エベレストより高い山 相撲の始まりの合図
ロダンの考える人は、なにも考えていない? サンタクロースは本来、赤い服ではなかった
“ワタシ”と言う漢字は存在しない 実はもろい、サイの角
西暦が使われるようになったのはつい最近! コーヒー飲んでも眠くなる!
リンカーンの演説は、当時注目されなかった 勉強の本来の意味
寒いのに風邪をひかない!? 香水の本来の使用法
その昔、バターは食用ではなかった 安全なキノコの見分け方
贈答品の水引は、実は別におめでたくなかった ポパイは初め、ほうれん草は食べていなかった!?
ホワイトハウスは白くなかった!? 遠山の金さん、その決めゼリフ
セーラー服は本来体操用だった 立つ鳥跡を濁す!?
アダムとイブが食べたのはリンゴじゃない!? ひまわりの「花」は太陽に向かって回転していない
「呉越同舟」の正しい意味 寿司を食べ終わった客が「おあいそ」と言うのは本当はおかしい
突き指は引っ張ってはいけない うるう年は4年に1度とは限らない
韓国料理も、昔は辛くなかった ニンニクはあの臭いが効くと思ったら大間違い
砂漠にも、大洪水が起きる! アルカリ性食品・酸性食品の真実!
沖縄でも、雪が降ったことがある! 2月30日がある!
地球温暖化は、自然現象!? 石じゃない「化石」もある!
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国旗の色は、赤じゃない!? 春分・秋分の日も、昼夜の長さは同じではない!?
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アインシュタインがノーベル賞をもらった理由とは? 「これは『金閣寺』ではありません」
お酒を飲むと体が温かく……? 地動説は間違っていた?
中国の女性は、チャイナドレスを着ない!? 七夕は7月7日ではない?


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万有引力の発見のきっかけはリンゴではなかった!?
ニュートンの万有引力の法則は有名です。質量のある物は全て引力を持っている、と言うものです。
さて、有名な話ではありますが、ニュートンは万有引力の法則について、もう喉元まで出掛かっていました。
そんなとき、ニュートンの前に一個のリンゴが落ちてきました。
それを見てニュートンは、万有引力の法則に気がついた、と言われています。
しかしあまりに有名な話ですが、どうやら真実かどうかはよくわかっていないようです。
どこで気がついたのか、については諸説あるようですが、一説にはなんとトイレで気が付いた、とも言われています。
ですがこれはちょっと下品。
なのであとでニュートンの伝記を書いた人が(あるいはニュートン自身が)このリンゴの話を作った、と言われているのです。
有名話に隠された、ちょっと下品な真実でした。
もっとも、真実がどちらなのか、よくわかっていないのが本当のところなのですが。
ちなみに、ニュートンの家には本当にリンゴの木があり、その挿し木が、日本にある数箇所の植物園にも植えられています。

江戸時代の大名(特に将軍家)の食事は豪華じゃない?
偉い人=金持ち。金持ち=豪華。豪華=当然食事も豪華でしょう!
確かに、江戸時代でも将軍あたりの食事は豪華だったようです。
でもそれは見かけ倒し。豪華なだけで、とてもまずかったそうです。
まず、家臣が料理を作ります。それを毒味係が毒味。
しかし、その際、毒の反応を見るために、毒味係りが食べた後、数十分間将軍に食事を持っていかないのです。
当然、今みたいに電子レンジがないので、食事は冷めてしまいます。
つまり、将軍は冷めたご飯をしぶしぶ食べていたのです。
しかも、それだけでは終わりません。
冷めただけでなく(当然、冷めれば味が落ちるのですが)、一口食べたら下げられてしまいます。
そして、また新しいのが出てきて、それを一口食べたらまた下げられて…の繰り返し。
将軍は食事をゆっくり食べることも出来ないのです。
そうなると、将軍より庶民の方が豪華なのかもしれません。
ちなみに、将軍が一口食べてさげられたご飯はその後どうなるかというと、家臣のご飯となるようです。

鎌倉幕府成立は、いい国(1192)ではなかった!?
「いい国作ろう鎌倉幕府」
これは、日本史が嫌いな人でも知っている、何故か有名な言葉。年号の語呂合わせの定番と言ってもいいでしょう。
が、しかし、最近の学会では、「いい国作ろう」説は少数派になっているのです。
では、いつなのか? 現在、様々な説があります。
説(1);侍所(さむらいどころ)を設置し、関東の御家人を統治しはじめた時の、1180年説。
説(2);後白河法皇(ごしらかわほうおう)から東国支配権を認められ、正式な行政機関と認められた時の、1183年説(この時はまだ、平氏は滅びてません)。
説(3);政務を扱う公文所(くもんじょ)・裁判を扱う問注所(もんちゅうじょ)が設置され、行政組織が整った時の、1184年説。
説(4);平氏の残党と義経追補の名目で守護・地頭が置かれたことで、武家の支配権が全国に及んだ時の、1185年説。
説(5);頼朝が右近衛大将(うこのえのだいしょう)(右大将軍)に任命された時の、1190年説。
説(6);頼朝の征夷大将軍就任を拒み続けた後白川法王が死んで、ついに将軍に就任した時の、1192年(いい国)説。
と、6つも説があるのです。
現在最も有力なのは、説(4)の1185年説です。
なお、最近、小学校で「鎌倉幕府1192年成立」と言うのは教えなくなったそうです。

シンデレラはガラスの靴を履いていなかった!?
いまさら説明をする必要は無いでしょう。
シンデレラは、ガラスの靴がきっかけで、王子様と結婚し、ハッピーエンドを迎えます。
しかし、考えてみると奇妙な話。
ガラスの靴なんて履いていたら、踊るどころか、歩くことさえできません。そんなことをしたら、割れてしまいます。
なのに、何故ガラスの靴なのでしょうか?
実は、シンデレラが履いていた靴は、ガラスの靴ではなく、毛皮の靴だったのです。
シンデレラは、フランスの古い民話が元になっていますが、原典では毛皮の靴だったのです。
「毛皮」はフランス語で、ヴェール【vair】。
それが、フランス語で「ガラス」を意味するヴェール【verre】と書き間違えられ、「ガラスの靴」になってしまったのです。

縄文人は米を食べていた!?
米は、弥生時代に大陸から伝わって来たと言われています。
しかし、最近の研究では、稲作開始縄文時代説がほとんど決定的になって来ています。
この新発見、どうしてわかったかというと、自然科学分析の発達のおかげ。
岡山県総社市南溝手遺跡から出土した土器には、モミのあとがついていました。
このことから、縄文時代後期に稲作が行われていた可能性が強い、と言われるようになったのです。
さらに、縄文時代後期の土器の土の中から見つかった、プラント・オパールの結晶が、稲の存在を証明しました。
突然ですが、稲科の植物で手を切ったことはありますか?
あれは、葉の細胞に珪酸(けいさん)と言うガラス質の物質が大量に含まれているため。
この珪酸が化石になるとプラント・オパールになります。これは、1万年経っても変化しません。
このわずか40ミクロン(100分の4ミリ)の結晶が、縄文時代に稲作が行われていた可能性を示しているのです。
ですが、もしテストで『稲作が開始されたのは何時代か?』という問題に対して、『縄文時代(後期)』と書きバツをもらっても、当館の住民及び管理人は、一切の責任を負いませんのでそのつもりで。

オーケストラに指揮者はいらない!?
みなさんはオーケストラを聴きにいったことはあるでしょうか? テレビで見た方も多いと思います。
さてこのオーケストラ、演奏者をよ〜く観察してみると、なんとなく指揮者より楽譜の方を見ているような感じがします。
そこで、指揮者がいなくても演奏できるんじゃないのか?という疑問が、ふと浮かんできます。
実は、なんと指揮者がいなくても案外演奏できるのです(最初の始まりの合図さえあれば)。
どちらかというと、指揮者が必要なのは演奏時よりも練習時。
それは、指揮者が演奏者に「ここはこう演奏するんだ」という曲のイメージを与えるのが大切だからです。
オーケストラの演奏者達が、曲のテンポをしっかりつかんでいれば、指揮者はいなくても演奏ができるのです。
そして、もし少しでも演奏がずれたら、指揮者に合わせて修正する、と言う感じなのです。
余談ですが、実は指揮者の方がオーケストラのテンポに合わせていることの方が多いとか。
指揮者になる夢をお持ちの方、これに落胆せずに、頑張って下さい。

東大の赤門は学びの門じゃない!?
東京都文京区本郷の東京大学には、学びの門なる物があります。
しかし、実はこれは、元々は学びの門などではなかったのです。
赤門(学びの門)があった場所には、かつて加賀藩前田家の屋敷がありました。
赤門は、その前田家の門の名残なのです。
第11代将軍・徳川家斉(いえなり)はオットセイ将軍とも呼ばれるように、精力絶論で、40人の即席を持っていて、53人(55人との説もあり)の子をもうけていました。
そのうち無事成人したのは13人だけでしたが、その中の1人、溶姫(ようひめ)を加賀藩前田家の前田斉秦(なりやす)に嫁がせました。
江戸時代、将軍の娘を嫁に迎える際には、新たに奥方御殿を造営し、さらに朱塗りの門を建てるのがしきたりになっていました。
そこで前田家は御殿を作り、切妻式で左右に破風造りの番所をそなえた、朱塗りの門(御守殿門)=赤門を建てました。
つまり、赤門は元々は結婚のための門だったのです。
それが現在では何故か学びの門となっているのです。

慶応義塾大学は実は京都にもあった!?
慶応大学(慶応義塾大学)は現在、東京にあるのはご存知の通り。
この大学の前身はは、福沢諭吉が設けた慶応義塾です。
この塾は最初は東京・芝新銭座にありましたが、明治4年3月に、三田に移りました。
そして明治23年に大学部を設け、日本で最初の私立の総合大学となりました。
さて、その慶応大学ですが、東京以外にもあったことは、意外と知られていません。
その場所は、題名の通り、京都です。
もっとも、それはいわゆる分校だったのですが。
ところで、日本で最初に民主教育を実施したのも、実は京都。
日本最初の幼稚園、小学校、中学校のいずれも、京都で誕生しているのです。
明治4年、諭吉は京都を訪れ、京都の教育(学区制)を視察しました。
そのとき、のちの京都府知事、槙村正直(まきむらまさなお)から京都にも慶応義塾を開いてくれるよう頼まれました。
諭吉はそれを承諾し、京都に慶応義塾の分校が誕生しました。明治4年7月のことです。
分校は京都府庁内に設けられましたが、その分校は何故かそんなに長くは続かず、今ではその姿を消してしまった、と言うわけです。

植物が会話する!?
植物と言うと、生涯孤独、無言でいるように思われています。
しかし、最近の研究で、実は植物も他の生物と同じように、コミュニケーションを交わしているらしい、と言う事がわかって来ました。
植物の中には、その葉が虫などに食べられると、食べられている葉から、ある種の物質を放出するものがあります。
そして、その物質は周囲の葉に警戒を呼びかける能力を有するのではないか?と考えられています。
つまり、物質を放出して、周りの植物に「害虫警告」を送っているらしいのです。
その物質=害虫警告が周囲の植物に伝わり、周囲の葉では虫が嫌う物質の濃度が高くなる、と言うことが分かったのです。
このように、ある種の物質を放出してコミュニケーションをしている植物としては、ポプラが知られています。
その他、シラカバも同じように物質を放出しながらコミュニケーションを交わしていると言われています。

闘牛は赤色に反応しない!?
スペインの伝統的行事、闘牛。
赤い布を牛の前で散らすかせ、牛が突っ込んで来たらサッとよけ、ヤリを牛に刺して殺すと言うものです。
そして闘牛には、必ず赤い布が使われます。
そのため、「牛は赤い色に反応(興奮)する」と言う固定観念が生まれました。
しかし、実際、牛の目は色が判別出来ず、モノクロの世界なのです。
その為、牛の目の前にどんなに赤い物を置いても、牛は全く興奮しません。
牛が興奮して布に突っ込むのは、闘牛者が牛の前で布をひらひらさせるから。
赤い布を使っているのは、単なる伝統なんだそうです。

ありがとう=サンキューではない!?
これは、まるっきり別物だ、と言う意味ではなく、「100%同じではない」と言う意味。
両者共に「感謝」を表すとき使う言葉ですが、では、どう違うのでしょうか?
「ありがとう」は、漢字で書くと「有り難う」。
これを訳すと「こんな“有るのが難しい”くらい親切な事をしていただいて感謝しています」と言う意味。
「有るのが難しい」と言うのはどう言う事かと言うと、「滅多に無い」と言う事です。
一方「サンキュー【Thank you】」はThank(感謝する)+You(あなたに)で「わたしはあなたに感謝する」と言う意味。
つまり、「ありがとう」は「世の中にとって、こんな珍しい事はない」と、世の中と比較して間接的に感謝しているのに対し、
「サンキュー」は自分の気持ちをストレートに表現していると言えます。
別にわざわざ使い分ける必要は、全くありませんが…。

テレフォンはもともと電話ではない
これはもちろん昔の話。
電話の事を英語で「テレフォン【telephone】」と言います。
電話を発明したのはアメリカの科学者ベルで、1876年にその特許を取得しています。
ベルは自分で発明した電話に「telephone(以下面倒なのでテレフォン)」と名付けました。
しかし、テレフォンと言う言葉は、電話の発明以前から存在していました。
では、本来は何を意味していたのでしょうか?
ベルが電話の特許を取る42年前の1834年。
フランスのスドレーと言う科学者が電信機を作り、それをテレフォンと名付けました。
これがテレフォンと言う言葉の起源なのです。
このテレフォンと言う言葉はそのまま英語にも取り入られ、
イギリスではまずテレフォンは船の警戒信号装置を指す言葉として用いられ、後にはメガフォンのようなものをテレフォンと呼ぶようになりました。
そして電話が発明され、テレフォンは電話を意味する言葉となったのです。

エベレストより高い山
「世界で最も高い山は?」と聞かれたら、ほとんどの人がエベレスト(チョモランマ)と答えるでしょう。
それは正解であり、正解でないとも言えます。
エベレストは標高8848mあり、地上にある山のなかでは確かに最も高い山です。
その意味では正解ですが、海に浮かぶ島。ここにある山には、海底部からひとつの山としてそびえたっている物があります。
その中には基底部(海底部)から測るとエベレストをはるかに超える高さの山があります。
それを世界で最も高い山だと考えれば、エベレストが世界最高の山だというのは不正解となります。
エベレストを超える山とは、ハワイ島にあるマウナ・ケア山です。
この山は海抜4205m。
つまり、海面からでてるのは4205mですが、その基底部(海底部)から測ると、1万0205mの高さになります。
一方、エベレストは8848m。
したがって、マウナ・ケア山はエベレストよりはるかに高いことになるのです。
ちょっとへ理屈の入った雑学でした。

相撲の始まりの合図
日本の国技と呼ばれる相撲。しかし、国技と言えど、馴染みない人には馴染みないものです。
そして、相撲でよく誤解されるのが、開始の合図。
「『はっけよ〜い、のこった』じゃないの?」と言う方、大勢いることでしょう。
実は、相撲の始まりの合図は「はっけよ〜い、のこった」ではないのです。
ではなにか?
実は、相撲に合図などなく、両方の力士が準備が出来ると、始まるのです。
どういう事かと言うと、こう言う事です。
両方の力士が向かい合ってしゃがんだら、心構えをします。
そして、準備が整ったと思ったら、土俵の上にこぶしを乗せます。
先にこぶしを乗せた方はそのままで、勝負の開始はもう片方の力士に託されます。
もう片方の力士がちょんと土俵を叩いたら、試合開始。
こうして始まるのです。
あの「はっけよ〜い、のこった」というのは、いわば応援。
「はっけよ〜い」は「姿勢がいいぞ」と言った意味で、これは試合開始前に叫ばれる事が多いです。
「のこった」は「押せ押せ!」とか、「頑張れ!」とかと言ったような意味で、試合中によく叫ばれる物です。
決して、両方とも開始の合図ではないのです。
相撲をよく見ると、「はっけよい、のこった」と、試合開始のタイミングは、少しずれているはずです。

ロダンの考える人は、なにも考えていない?
ロダン作、「考える人」。
あの、うつむいて考え込んでいるような銅像は、かなり有名です。
しかし、あの「考える人」。一体、何を考えているのでしょうか?
実はあの像、あれ単体ではなく、「地獄の門」と言う作品の、一部なのです。
では、どの部分かというと、「地獄の門」の中央部分です。
そんなど真ん中で何をやっているかというと、実は地獄の中で人々がもがき苦しんでいる姿を見ているところなのです。
もがき苦しんでいる人々を見て…何を考えているのか、それともなにも考えていないのか…??
それは、彼以外にはわかりません。
ちなみに、「考える人」とネーミングしたのは、作者のオーギュスト・ロダン(1840〜1917)ではなく、
ロダンを鋳造(ちゅうぞう)したリディエと言う人です。
「考える人」 1880年/ブロンズ/183×130×110

サンタクロースは本来、赤い服ではなかった
真っ赤な服に、白いヒゲ。こう言えば、誰もがサンタクロースを連想するでしょう。
しかし、実はこれは大きな間違い。
実は、サンタクロースは当初、赤い服など着ていなかったのです。
元々の服の色は、はっきり言って決まっていませんでした。
サンタクロースのモデルになった聖ニコラウス、と言う司教さんがいるのですが、彼が普段どんな衣服を着ていたかは、全く記録に残っていないのです。
そのため、服の色は人や場所によってまちまち。
更には、ヒゲのないサンタクロースまでいました。
では、何故赤い服になったのでしょうか?
突然ですが、コカ・コーラという会社は知っていますよね?
そう、コーラで有名な会社です。
実は、あの赤い服が定番となったのは、1931年のこと。
コカ・コーラが、クリスマス向けのコマーシャルポスターで、サンタにコーラを飲ませることにしました。
その時、コカ・コーラのイメージカラーである赤い服を、サンタに着せたのです。
このポスターが評判を呼び、以後、サンタの服と言えば赤が定番となったのです。

“ワタシ”と言う漢字は存在しない
自分のことを丁寧語で、「ワタシ」と言います。
この「ワタシ」と言う言葉は、よく漢字で「私」と書きますが、実はこれ、間違いなのです。
「私」という漢字には「わたくし」と言う訓読みと、「シ」と言う音読みしかなく、「ワタシ」という読みはないのです。
しかし、同じ一人称の丁寧語である、と言うことでいつのまにかに「私」と書いて「ワタシ」と読むようになってしまったのです。
ただ、辞書には「常用外音訓」として、「わたし」と言う訓読みも載っています。
近い将来、「私」と書いて「わたし」と読むのが正しい日が来るかも知れません。

実はもろい、サイの角
サイが猛突進してきてあの角で突かれると、相当痛いとか。
痛いどころか、内臓破裂するとかしないとか(詳細不明)。
さてこのサイの角。実は、意外にもろいと言うことをご存知でしょうか?
サイの角は、一見骨のように見えますが、実は骨とは無縁で、毛が集まったようなものなのです。
ですので、意外と貧弱なのです。
ですが、爪のように永遠に伸び続けるので、ちょっとぐらいかけても大丈夫。また伸びてきます。
と言っても、大人になると折れた角を完全に修復することは難しいらしく、角が欠けたままのサイもいます。
しかし、子どものうちや、大人になっても小さな傷なら、簡単に修復される、との事です。

西暦が使われるようになったのはつい最近!
いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(すなわち西暦1年)としています(実際には違うのでは?と言う声もありますが…)。
ところで、この西暦は一体いつから使われるようになったのでしょうか?
西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
したがって、それ以前には西暦はありませんでした(つまり、西暦元年1月1日というのを体験した人はいないのです)。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、
実際に世界的に使われるようになったのは、なんと18世紀になってから。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。
西暦が使われたのは、意外と最近の事なのです。
ちなみに、何故西暦ゼロ年と言う物が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ば。
当時のヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。

コーヒー飲んでも眠くなる!
よく、「コーヒーには眠気をなくす作用がある」といいます。
しかし、これは真っ赤な嘘なのです。
コーヒーを飲むと、眠気が消える、と言うのは、コーヒーの中に「カフェイン」と言う覚醒作用(眠気をなくす作用)のある成分が入っているからです。
が、コーヒー豆100g中のカフェインの量は、1.3%。
抽出液(コーヒーと呼ばれる液体)ではたったの0.04%しかありません。
つまり、コーヒーに覚醒作用はほとんど期待出来ないのです。
ちなみに、カフェインが多く入っている飲み物は、抹茶や番茶です。
抹茶の100g中のカフェイン量は3.2%、番茶は2.0%入っています。
そして、もう一つの眠気をなくすといわれる紅茶は、紅茶の葉っぱには100g中2.7%ほどカフェインが入ってますが、浸出液(紅茶と呼ばれる液体)ではたった0.05%しかありません。
ちなみに、この「カフェイン」とは、「覚醒作用がある」と言われるぐらいですから、あの猛毒の「覚醒剤」の仲間です。
ですので、あまり飲みすぎると危険です。
下手をすると、死亡してしまう恐れもあります。
とは言っても、コーヒー飲んで死のうと思った場合は、バケツ3杯ほど飲まなくてはなりませんが……。

リンカーンの演説は、当時注目されなかった
「人民の、人民による、人民のための政治」
これは、1863年11月に、南北戦争の激戦地、ゲディスバーグに戦没者を葬る国立墓地ができ、その聖別式で当時の大統領、リンカーンが行った演説の最後の一言です。
この言葉は名文句として歴史に残ることになりますが、実は当日、聴衆はリンカーンの演説に大して注目しませんでした。
聖別式では、上院議員のエドワード・エヴァレットが2時間にわたって大演説しました。
リンカーンはその後で演説したのですが、それは低い声で、呟くかのようで、聴衆にはリンカーンの演説が聞き取れませんでした。
それに、リンカーンの演説は3分足らずの短いもの。演説が終わったあと、聴衆の中にはほとんど反応がありませんでした。
この演説がすばらしい演説と評価されるようになったのは、しばらく経ってからのことです。

勉強の本来の意味
今日では、「勉強」と言う言葉は、「勉学」「学習」と言った意味で用いられています。
しかし、実は「勉強」と言う言葉には、本来は「学習」…つまり、「学ぶ」と言う意味はなかったのです。
中国語で「勉強」といえば、「力が足りないために、無理に行うこと」を意味します。
その「勉強」と言う単語が日本に入ってきた当時、日本でもしばらくの間は「気が進まないことを仕方無しにする」とか「努力をして困難に立ち向かう」と言った意味で用いられていました。
江戸時代中期に書かれた『安斎随筆(あんさいずいひつ)』に「勉強――この二字、なりがたき事をしいてしとげるを云うなり」とあります。
噛み砕くと、「勉強…この言葉は、やりたくない事を仕方なしにやる事を意味する」と言った感じです。
それがいつしか「学習」と言う意味に用いられるようになりました。
今度、親に「勉強しなさい」と言われたら、「勉強の本来の意味は『気が進まないことを仕方無しにする』と言う意味なんだよ?」とでも言えば、勉強(学習)をせずにすむかもしれません。
ただし、本当にこう言ってあなたがどうなっても、当館一同、及び管理人は、一切の責任を負いませんのであしからず。

寒いのに風邪をひかない!?
一般的に、寒いと風邪をひき易いです。
しかし、世界は広し。寒いのに絶対に風邪をひかないところが、世界中で2ヶ所だけあるのです。
それはどこかと言うと、南極と北極。
南極と北極は、ほとんど常に零下何度。冬になれば零下何十度にまでなり、それこそまさに凍えるような寒さ。
では何故寒いのに風邪をひきにくいのでしょうか?
風邪は、風邪のウイルスによって引き起こされます。
しかし、ウイルスはあまりにも温度の低いところだと、活動する事が出来ません。
そう、つまり、南極と北極では、寒すぎるあまり、ウイルスが全くいない(いても動けない)のです。
ですので、寒いのにクシャミだって出ないし、鼻水一滴出て来ません。
寒いのに鼻水が出ないとは、ちょっと不思議な気分な事でしょう。
ちなみに、北極か南極にしばらく滞在したあと戻ってくると、風邪を引きやすくなってしまうそうです。
これは、しばらくウイルスがいない環境にいたため、体の免疫機能が低下してしまったためです。

香水の本来の使用法
女性が使う化粧品の一つ、香水。
文字通り、「香る水」ですが、香水が作られた当時は、現在のような化粧用には使っていませんでした。
香水が作られたのは、フランスのベルサイユ宮殿。
そのベルサイユ宮殿にはなんとお風呂がありませんでした。
その為、そこに住む貴婦人たちは体臭が非常に気になり、それを紛らわすために香水を開発したのです。
そう、香水はもともと、体臭をかき消すためのものだったのです。
しだいにお風呂が普及していき、体臭が消せるようになると、今度は香水は女性が美しくなるために使われるようになっていきました。
ちなみに、当時は女性だけでなく、男性も香水を使っていました。

その昔、バターは食用ではなかった
現在トーストやホットケーキでお馴染みのバター(まぁ、中にはバターではなくマーガリンのお宅もあるでしょうけど)。
このバターはもともと、遊牧民の間の食品でした。
これがヨーロッパに伝わったのは、紀元前5世紀ごろらしいですが、
イタリアのローマ人はバターを野蛮人の食べ物だと言って嫌い、長い間食べようとはしませんでした。
それでは何に使っていたのかと言うと、有名なローマ風呂などで使う、塗り薬として使っていたらしいのです。
赤ん坊や幼児などの体を柔軟にすると言って、盛んに使われていたようです。
古代ローマの博物学者プリニウスは、ハチミツを混ぜたバターを歯に擦り付ければ、歯痛に効くと言って、使用をすすめています。
ちなみに、プリニウス(ガイウス・プリニウス・セクンドゥス)は、西暦23年から79年の人です。
バターがフランスで食べられるようになったのは6世紀ごろからで、ベルギーでは12世紀、ノルウェーでは13世紀になってから、やっと盛んに食べられるようになりました。
もっともポルトガル人は紀元前60年ごろから、ガリア人は紀元前200年ごろから、主に食用にしはじめたとも言われますので、ヨーロッパの中でも、すすんで食用にした地域もあったのでしょう。
このようにバターがヨーロッパ全体に普及したのは意外に新しく、バター作りの機械が導入されて工場生産されるようになったのは、19世紀末になってからのことなのです。
ちなみに、油脂(バターや油)を使うことが中心になっているヨーロッパ料理の中にありながら、
イタリア料理だけは油脂の中でもバターをあまり使わず、オリーブ油を使うのも、この歴史的背景からではないかと思われています。

安全なキノコの見分け方
キノコには、毒を持つ種類がたくさんあります。
それで、安全なキノコと毒を持つキノコの見分け方として
1;タテにさけるキノコ
2;色が地味で香りの良いキノコ
3;虫が食べているキノコ
は安全だと言われています。
が、しかし、これら3つは全て俗説で間違いなのです。
では、どのようなキノコが安全かと言いますと、
・茎にツボとカサの無いキノコ。
これも100%とは言い切れませんが、ほとんどの場合、ツボとカサがあると毒キノコです。
しかし、現在のところ、毒キノコを外見で判断する確実な方法は、まだ見つかっていません。
それが毒かどうかは、あくまで、食べてみるまでわからないのです。
もし誤って毒キノコを食べてしまった場合には、すぐに吐き出させ、急いで医者に行く事です。
この際、もしあれば、食べたのと同じキノコを持って行ってください。
これは、どんな毒にやられ、どんな対処をすればいいのか、医者にすぐにわかってもらうためです。
キノコ狩りをする際、一番いいのは、プロを連れて行く事。次にいいのが、図鑑を持って行く事です。
絶対に、素人判断でキノコを食べないようにしてください。

贈答品の水引は、実は別におめでたくなかった
お中元やお歳暮、結婚式やお葬式…。
これらの際…人生の節目にあたる儀礼の場には、必ず水引のかかった贈答品や金一封の封筒が登場します。
ところで、おめでたい時につける紅白の水引。実は元々は別におめでたい意味は全くありませんでした。
室町時代(1338〜1573年)の中国貿易では、中国から来る輸入品には全て箱の上に赤と白の縄が縛り付けてあったのです。
この紅白の縄を、送り出す中国人達は、ただ単に輸出品と言う目印として縛ったにすぎません。
ところがどういうわけか、日本に輸入されるとき、おめでたい印だと勘違いされたらしいのです。
何故こんなにも勘違いされ、これが贈答の習慣に定着したかと言うと、日本の古代からの信仰に通じるものがあったからだと思われています。
それは、「結びの信仰」です。
何かを結ぶことによって、魂がその結び目に宿り、贈る人の所へ自分の魂を運んでいくと言う贈り物の習慣に、紅白の水引が結びついたのです(日本は、どういうわけだか魂の断片を人に贈る風習がある)。
黒白の不祝儀用の水引は、祝儀用の紅白の水引をヒントとして発生したもの考えられています。
なお、水引をかけた右肩に“のし”をつけますが、これは贈り物の代表とされた“のしあわび(アワビを薄くそいで、のばし、干したもの)”から来たもので、これが次第に言葉も意味も変化していったものです。
中国の人は、まさか輸入品の目印がこんな勘違いをされるとは思っても無かったことでしょう。

ポパイは初め、ほうれん草は食べていなかった!?
サンタモニカ出身の水夫で、ほうれん草を食べるとたちまち千人力を得る………。
ご存知、マンガやテレビでお馴染みの「ポパイ」です(最近見ませんが)。
ポパイはアメリカの漫画家シーガーが1929年、新聞連載マンガ「シンブル・シアター」に登場させたセーラーマン(水夫)で、最初は脇役でしたが、やがて主人公になりました。
1933年、フライシャー兄弟によって短編アニメ映画のシリーズとなりますが、そのアニメ版によってほうれん草を食べると怪力をえるポパイが強調されることになります。
さて、このほうれん草。実は初めはほうれん草ではありませんでした。
初期のマンガでは、なんとキャベツを食べていました。
ポパイは危機に直面すると、相棒が投げるキャベツを食べて怪力を得ていました。
相棒はそのキャベツをどこからともなく手に入れてくる……それがあまりに不自然でした。
そこで、キャベツに代わって登場したのが、携帯に便利な缶詰のほうれん草だったと言うわけです。

ホワイトハウスは白くなかった!?
「ホワイトハウス」とは、言うまでもなくアメリカ大統領官邸の別称です。
このホワイトハウス、文字通り全体が真っ白に塗られた建物ですが、実は建設当時は白い建物ではありませんでした(当時の色不明)。
大統領官邸が完成したのは1800年。
最初の住人は2代大統領のジョン・アダムズでした。
独立後まもない1810年ごろ、アメリカはヨーロッパのナポレオン戦争に対し中立を守り、貿易上の利益を守ろうとしましたが、ナポレオンと戦っていたイギリスはアメリカの通商を妨害しました。
こうして起きたのが米英戦争(1812〜14年)です。
この戦争で首都ワシントンの大統領官邸も一時戦火に巻き込まれ、1814年に大半が焼失してしまいました。
翌1815年、全面改築を行うときに、火事で焼け焦げたあとを隠すために、全体を真っ白なペンキで塗ったのです。
これがホワイトハウスが白くなった理由です。
ちなみに、そのときの戦争に悲劇を伝えるためにか、「トルーマン・バルコニー」と言うところの一部だけは、
焼け焦げたまま白く塗っていません。
なお、ホワイトハウスが正式の呼称として使われるようになったのは、26代大統領ルーズベルトが便箋にホワイトハウスの名を入れてからのことです。

遠山の金さん、その決めゼリフ
「遠山の金さん」こと遠山金四郎。彼はドラマになりました。
さて、そのドラマの中で彼は、水戸黄門の如く悪人をやっつけイレズミの桜吹雪を悪人共に見せつけ、そして決めゼリフいいますが…。
この時のセリフが、どういうわけか水戸黄門とごっちゃにされ、
「この桜吹雪が目に入らぬか!!」
だと思っている人は、意外に多いようです。
が、真実は違います。
実は、遠山の金さんの桜吹雪の決めゼリフは決まっておらず、
「この桜吹雪がお前らの悪事を全て見抜いているんだよ!!」
「この桜吹雪を知らねぇとは言わせねぇ!!」
「(この桜吹雪を)散らせるもんなら散らしてみな」
「偽小判とはわけが違う、正真正銘の桜吹雪だ」
等など、実にいろいろあるのです。
機会があったら見てみては?

セーラー服は本来体操用だった
セーラー服と言えば、いまは女学生が着ているイメージしかありませんが、元々は水夫(船員)用の服で、あの大きな襟は長髪で服を汚さないためについていたものなのです。
セーラー服に関する誤解は多く、始め水夫に着られていたセーラー服はやがて男児服として用いられ、最後に女児が着用するようになっていったのです。
さらに、いまは通学服として用いられていますが、元々はなんと体操用だったのです。
セーラー服は明治の末に日本にもたらされましたが、それは女学生の体操用の服でした。
しかし、すぐには普及せず、まずミッションスクール(キリスト教の学校)がそれを体操服として用いるようになりました。
そして昭和になって、やっといまのような通学服として、多くの学校で採用されるようになったのです。
ですので、「月に代わって…」と言うのが、セーラー服の本来の使い方、と言うわけです(意味がわからなければ、それでいいです)。

立つ鳥跡を濁す!?
「立つ鳥跡を濁さず(飛ぶ鳥跡を濁さず)」と言うことわざがあります。
意味は「立ち去る者は、あとが見苦しくないように始末をする」と言う意味です。
が、しかし、本物の鳥は、飛び立つときに跡を濁すのです。
空を飛ぶのに、体が軽いに超したことはありません。
そのため、鳥は体重を出来るだけ軽くしようと、飛び立つ時に、フンをするのです。
すなわち、「立つ鳥跡を濁す」と言うわけです。
もちろん、毎回毎回、飛び立つ時にフンをする、というわけではありませんが…。

アダムとイブが食べたのはリンゴじゃない!?
人間のご先祖・アダムとイブは、「食べてはいけない」と神様に言われていた禁断の果実を食べ、エデンの園から追放された…。
と言うのが旧約聖書に書かれていること。
さて、この「禁断の果実」とはなんでしょう?
こう聞かれれば、日本人のほとんどの人は「リンゴ」と答えることでしょう。
しかし、本当のところ、これはリンゴの事ではないようなのです。
と言うのも、このアダムとイブのことが書かれている「旧約聖書」創世記第3章には、単に「果実」とあるだけで、どこにも「リンゴ」とは書かれていないのです。
アダムとイブが果実を食べた後で裸を隠したのがイチジクの葉だったことから、イチジクの実ではないかという聖書学者もいます。
イスラムの学者は、小麦の穂かブドウではないかと考えているそうです。
では、なぜリンゴ説が定着したのでしょうか?
これは、リンゴを喜びや破壊の象徴とする、ギリシアやケルト神話の影響と考えられています。
でも、確かに言われてみれば、リンゴはどちらかというと寒冷地の果物。
ヨーロッパならともかく、ユダヤ(パレスチナ南部。沖縄と同じぐらいの緯度)の神話に登場するのは不自然…と言う考え方もできなくはないです。

ひまわりの「花」は太陽に向かって回転していない
ひまわりは漢字で「向日葵」…つまり、「日を向く花」と名づけられています。
また、英語でもサンフラワー、太陽の花と名づけられています。
このような事からわかるように、ひまわりと言う花は、太陽に向かって回転しているようなイメージを持たれています。
が、実際によく観察してみると、別に太陽に向かって回転するなんてことはありません。
では、何故このように思われてしまったのでしょうか?
実は、ひまわりの「花」は太陽に向かって回転しませんが、つぼみや、茎が若いときには太陽の後を追いかけるようにして動くのです。
つまり、開花する前の若い時期には、太陽の動きに合わせて動き、
夜になるとそっと方向を変えて太陽が出てくるのを待っているのですが、開花後は自由気ままな方向を向くのです。
決して、ひまわりの「花」が太陽の方向を向いて回転することはないのです。

「呉越同舟」の正しい意味
「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」と言う四字熟語(故事成語)があります。
この言葉、早い話が「最悪の状況」と言う意味に使われがちですが、実は正しくは全く別の意味の言葉なのです。
その前に、この故事成語の背景を説明しましょう。
「呉越同舟」とは、「呉の人と越の人が同じ舟に乗り合わせてしまい、最高に悪い様子」と言うことです。
この「呉」と「越」と言うのは、遠い昔、今の中国が「春秋戦国時代」と呼ばれる時代だった時にあった国。
当時、今の中国は多くの国に分かれていました。
そして、「呉」と「越」の2国は、ものすごく仲が悪い国でした。
そのため、「呉越同舟」と言えば、「仲の悪いもの同士が同じ舟に乗り合わせた最悪の状況」と誤解されてしまったわけですが…本当は違います。
この「呉越同舟」と言う故事成語は、兵法の書「孫子」の第十一篇「九地」と言うものに書かれています。
その話の内容を訳すと、
「呉人と越人は互いにいがみ合っているが、偶然乗り合わせた舟が突風に遭ったなら舟がひっくり返されるのを防ごうとして、まるで左右の手のようにお互いに力を合わせて事にあたる」
…つまり、「普段仲の悪い者同士でも、危機に直面すればお互いに力を合わせる」と言う意味なのです。
これからは、是非とも正しく使ってください。

寿司を食べ終わった客が「おあいそ」と言うのは本当はおかしい
お寿司屋などで、食べ終わって席から立つときに、よく「おあいそお願いします」と言います。
が、実はこれ、元々の意味を考えると、客が言うのはおかしいのです。
この「おあいそ」。漢字で書くと「御愛想」。
元々は、
「ぶしつけにお勘定のことなど持ち出しまして、さぞかし愛想尽かしでございましょうが」
つまり、「いきなりお金の話などして、愛想を失くすかも知れませんが…」と言う意味で、
勘定を請求する側(つまり店側)が、へりくだって口にする言葉だったのです。
ですので、「おあいそお願いします」は、板前がレジに向かって言ったり、店が客に伝票を渡すときなどに言う言葉であって、決して客が言う言葉ではないわけなのです。

突き指は引っ張ってはいけない
最近はだいぶ減ってきましたが、一昔前までは、突き指をすると引っ張って治そうとする人がたくさんいました。
突いたのだから引っ張れば良い、と言う発想です。
しかし、これは間違った治療法。こんなことをすると、逆に治りにくくなってしまうので注意しなければなりません。
脱臼した場合ならば、たまたまうまい方向に引っ張れればはずみで治ることもあります。
しかし、これはあくまで偶然。失敗する確率の方が非常に高いです。
しかも突き指は、脱臼とは限りません。
脱臼以外にも、ねんざ、打撲、骨折、腱断裂など、様々な場合があるからです。
骨折しているのに引っ張ったら、とんでもない事になるので絶対にやらないように。
ではどう処置したらいいかと言いますと、最善の方法はとりあえず冷やして、あまり指を曲げないようにして、できるだけ早く病院へ行くことです。

うるう年は4年に1度とは限らない
オリンピック、アメリカの大統領選挙、そして閏年(うるうどし)…。この3つは4年に一度、同じ年に行われます。
そしてもちろん、普段は28日までしかない2月が、29日までと、1日延びるのです。
しかしこのうるう年、厳密には4年に1度では無いのです。
閏年を決めるのは3つの規則です。
まず、一般常識的に世間に普及している、「4で割り切れる年は閏年」と言うもの。
2004年、2008年、2012年…などです。
そして、2つ目の規則は、「4で割り切れても、100で割り切れたら平年」と言うもの。
例えば、1900は4で割り切れます。しかし、同時に100でも割り切れます。
そのため、1900年は平年になるのです(同様に、2100年、2200年、2300年も平年)。
しかし、2000年は100で割り切れるのに、閏年でした。
これは、閏年の3つ目の規則として、「4でも100でも割り切れる年であっても、400で割り切れたら閏年」と言う物があるからです。
2000は4でも100でも割り切れますが、同時に400でも割り切ることが出来ます。
そのため、2000年は閏年になるのです(同様に、1600年、2400年、2800年も閏年)。
この3つの法則にのっとる事で、なんと約3319年たっても、たった1日しか日付がずれないのです。
この暦(グレゴリオ暦)が作られたのは、西暦1582年。
そこから数えて、日付が1日ずれるのは、なんと西暦4901年。
これを書いているのが2004年(2005年に改訂)ですので、あと2894年は、日付の心配をしなくても構わないのです。

韓国料理も、昔は辛くなかった
「韓国料理」と言うと、唐辛子をふんだんに使い、いかにも「辛い!」と言うイメージが漂います。
ところが、韓国の料理に唐辛子が使われるようになった歴史は意外に浅く、たった二世紀足らずのこと。
18世紀前半ごろから、使用されるようになったのです。
それも辛さを求めるわけではなく、変質を防止したり、臭みを除くのが目的でした。
キムチにしても、かつては唐辛子などいれず、コショウ、サンショウ、ニンニクなどで味付けするのが一般的でした。
そこに、品質保持のために唐辛子が入れられるようになったのです。
そして19世紀に入ってようやく、普通の料理にも唐辛子を使うようになり、いまのような辛い料理が生み出されて行ったのです。
しかし、コショウ、サンショウ、ニンニクが入っていれば、それだけで十分辛い?
なお、日本で古風な物が廃れて行っているように、最近は韓国でも、古風な「激辛料理」が廃れて行っているとの事です。

ニンニクはあの臭いが効くと思ったら大間違い
ニンニクを食べると精がつくと言うのは、世界的によく知られた話です。
インドでは釈迦が僧にニンニクを食べることを禁じていましたし(勢い余って何かしでかすといけないので)、
逆にエジプトでは、奴隷にニンニクを食べさせて体力消耗を防ぎ、余計に働かせようとしていました。
では、この精がつく科学的成分はなんなのでしょう?
1893年、ドイツの学者がニンニクの悪臭成分からアリウムと言うイオウの化合物を発見。
そして、「これが有効成分だ」と発表しました。
これが、「ニンニクはあの臭いが効く」と思い込まれる原因となったのですが…。
実は、これが大間違い。
1936年に、日本の小湊(こみなと)博士が、ニンニクの有効成分はスコルジニンという物質だと言うことを発見しました。
しかも、これは無臭の物質。
スコルジニンは、体内に入った栄養物を完全に燃焼させてエネルギーにする作用を持っています。
つまり、食べた物を無駄なく消費する作用があるのです。
そのため、体組織を若返らせ、新陳代謝を盛んにするので、強壮、疲労回復、食欲増進と言った、いわゆる「元気な状態」にしたり、解毒作用を現したりするのです。
また、善玉コレステロールを増やすことにより血液をサラサラにして血圧を下げる、などの効果もあります。
未だに戦前の常識を信じて、臭いを消さずに食べている人もいますが、熱を十分加えて、臭みを取り除いても効き目は全く変わりませんのでご安心を。
ただし、ニンニクのあの臭いの中にも、アリシンと言う抗菌作用を持つ成分が発見されています。
これは、チフス菌やコレラ菌、寄生虫や原虫、結核菌やライ菌(ハンセン病の原因菌)などに作用することがわかっています。
ただし、だからと言ってニンニクを食べ過ぎると、体中に酸素を運ぶ赤血球を壊して貧血になったり、胃腸などに潰瘍を起こすこともあります。
また、その抗菌作用により腸内の有用菌を減らす恐れもあります。
1日1〜2片程度が適量。食べ過ぎないように。
参考文献;日本医療栄養センター【http://jmnc.primuss.com/】
健康食品プラザ【http://www.nava21.ne.jp/~uesugi/ken/index.htm】
情報まんたん!! コミュニティー【http://www.anzu.or.jp/commu/index.shtml】
@あたみ【http://atamix.hp.infoseek.co.jp/】

砂漠にも、大洪水が起きる!
「洪水」と「砂漠」。
一見、何の関係も無さそうに思えますが、世界は広し。世界の中には、大洪水の起きやすい砂漠も存在するのです。
いくつかありますが、中国のゴビ砂漠も、そのうちの1つです。
このゴビ砂漠。
5000kmほど離れたところに、海抜5000〜7000kmほどの「天山(てんざん〔ティエンシャン〕)山脈」がそびえ立っています。
天山山脈の高いところには、日本の富士山のように、夏まで雪を残しているところがあります。
この雪が夏、猛暑で解け水になると、地下水脈をつたり、ゴビ山脈のオアシスへと向かいます。
たかが雪解け水、されど雪解け水。天山山脈の雪解け水は、半端ではない量。
そこで、オアシスから水が溢れ出し、砂漠に大河のような大洪水が出来上がるのです。

アルカリ性食品・酸性食品の真実!
「アルカリ性食品は体に良い」「酸性食品は体に悪い」
こんな言葉を、誰もが一度は聞いたことがあるでしょう。
しかし、実はこれ。全くの大嘘なのです。
つまり、アルカリ性食品が体に良いわけでも、酸性食品が体に悪いわけでもありません。
そもそも、「アルカリ性食品」「酸性食品」とは、一体なんでしょう?
実を言うと、「アルカリ性食品」「酸性食品」と言う食品自体、まず存在しないのです。
こんな名前が存在するのも日本だけ。
外国から来た学者に「酸性・アルカリ性食品についてどう思いますか」と問いかけたら、
「それは何ですか?」と逆に聞かれ、恥をかいた、と言うエピソードもあるそうです。
では何故こんな名前が生まれたのでしょうか?
事の起こりは大正時代。
大阪大学のとある教授が、
「ウサギに大根おろしを食べさせたら、血液が酸性に傾いて病気になった」
と学会発表しました。
これが、そもそもの発端。
酸性・アルカリ性の値は、「pH(ピーエイチ/ペーハーとも)」と言う単位で測ります。
小さければ酸性が強く、大きければアルカリ性が強い、となっています。
この教授も、ウサギの血液のpHを測りましたが、当時の道具では、小数点以下の1桁目も怪しい物でした。
しかし、「大学の先生が言うんだから…」と言う事で、いつの間にかに
「酸性食品は悪く、アルカリ性食品は良い」
などと言われるようになってしまったのです。
そしてやがて、酸性・アルカリ性食品を研究する人も出てきました。
その人は、100グラムの食品を焼き、その灰を溶かした水の酸性・アルカリ性を測定。
結果、酸性に傾く食品と、アルカリ性に傾く食品とが出てきました。
ここから、
「体内で分解された時、酸性になる物が『酸性食品』、アルカリ性になる物が『アルカリ性食品』」
となったのです。
どうやら、燃やした灰のpHが、そのままそっくり食品のpHを表し、さらに体内で分解されると、そのpHが顕著に表れる、と考えられたようです。
しかし、実際にはそんな事はありません。
昭和の中ごろ、今から50年ほど前に極端な酸性食品、極端なアルカリ性食品ばかりを10日ほど食べさせて、
被験者たちの血液のpHに変化が表れるかどうかを観測しました。
その結果は、人間の血液の正常範囲である、7.32〜7.42でした。
つまり、一時的に変化する事はあれど、食べた物によって人間の体が酸性になったり、アルカリ性になる事はないのです。
pH7.32〜7.42とは、弱アルカリ性。
人間に限らず、他の動物もみな、呼吸や排尿などによって、血液が弱アルカリ性に保たれるようにできているのです。
ですので、酸性食品を食べ続けると、血液は弱アルカリ性ですが、尿が酸性になります。
もし、酸性食品・アルカリ性食品を食べて血液のpHが過剰に変化したら、それは食品による物ではなく、栄養不足などのただの病気。
急いで医者に行く事をオススメします。
そして、pHがどちらに0.5以上傾いても、重大な問題になります。
アルカリ性に傾くと、アルカロージス(アルカリ性症)、酸性に傾くとアシドーシス(酸血症)と言う、意識不明の死に近い状態になります。
我々の体は、我々が思っている以上に自己の健康に気を使っていて、普段は、こうならないよう一生懸命働いています。
そのため、ちょっとやそっと酸性食品・アルカリ性食品を食べたからといって、体に害が出ることは無いのです。
それどころか、「アルカリ性食品は体に良い」と言ってアルカリ性食品しか食べないと、栄養が偏り、体に様々な弊害をもたらします。
ところで、pHの「H」とは、水素イオンのこと。
水素イオンの濃度が高いと酸性に、低いとアルカリ性になります。
でも、なぜかpHの値が低い方が酸性、高い方がアルカリ性。
間違えないよう、お気をつけください(pH7で、中性)。
ちなみに、この酸性食品・アルカリ性食品問題の発端となったウサギの酸性化。
結局ウサギの血液が何故酸性になったのか、調べてみましたがわかりませんでした。
どなたか、知っていたら教えてください。
参考文献;化学・意表を突かれる身近な疑問
大阪市立科学館【http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/】
ヘルスデータセンター【http://www.e-karada.tv/】

沖縄でも、雪が降ったことがある!
沖縄と言えば、常夏、と言うイメージがあります。
沖縄は日本で唯一の亜熱帯気候。そのため、基本的には雪は降りません。
しかし、物事には例外が付き物。沖縄でも、過去に何度か雪が降ったことはあるのです。
沖縄で気象観測が始まったのは、1890年のこと。
確かに、それ以降は雪が降った記録はありませんが、それ以前には、降ったという記録が残されているのです。
その記録は、「球陽(きゅうよう)」と言う琉球王国(沖縄の中国名)の歴史文書に記されています。
そこには、1774年、1816年、1843年、1845年、1857年の5回、沖縄に雪が降ったと書かれているのです。
過去に降ったことがあるのに、何故今は降らないのか?
地球の気候が変わったのか、前述の5回の年が異常気象だったのか、はたまたただ単に記録違いか。
そこまではわかりませんが、少なくとも、沖縄だからと言って雪が降らないとは、断言できないようです。

2月30日がある!
現在日本で使用されている暦、「グレゴリオ暦」では、2月は28日までで、閏年の時は29日まであります。
つまり、普通は「2月30日」なんてものは存在しないのですが…。
しかし、世界は広し。過去、そして現在でも、2月30日が存在しているのです。
「1年」 現在の我々は、これを12で割り、時々閏年で修正しています。
しかし、まだ数学も天文学もほとんど発達していなかった大昔。
この「1年」と言う時の周期に気付いた人々は、なんとかそれを数字で表そうとしました。
ところが、未発達の数学、天文学で表そうとしたため、現在とは全く違う暦が出来上がってしまったのです。
それが、「太陰暦」「太陰太陽暦」「太陽暦」などの暦です。
これらの暦は、何故か「28日しかない1ヶ月」が無く、太陰暦と太陰太陽暦では、1ヶ月は29日か30日まで。太陽暦では30日前後でした。
「太陰暦」は新月から1ヶ月が始まり、「太陰太陽暦」では、月の満ち欠けで日を数え、「太陽暦」では、太陽の動きで月日を数えました。
そのため、太陰暦は1年がたったの354日。太陰太陽暦は、閏年には1年が13ヶ月になり、太陽暦は約4.1年で1日暦がずれてしまいました。
さて、これら3つの暦では、見てわかる通り、年によって「2月30日」が存在する事になるのです。
しかし、2月30日が存在したのは、この3つだけではありません。他にもまだあります。
そのうちの1つが作られたのは、紀元前46年。
ローマのユリウス・カエサル(英語読みでは「ジュリアス・シーザー」)が「太陽暦」を基にして、新しい暦を作りました。
それが、「ユリウス暦」です。
このユリウス暦では、1、3、5、7、9、11月を31日、4、6、8、10、12を30日、
そして2月を29日までと決め、4年に1度、2月を30日にしたのです。
しかしこのユリウス暦。1年の時間が、地球が太陽の周りを1周する時間より、約11分ほど長くなっていました。
そのため、1500年後の16世紀には、11日も日付がずれていたのです。
そこで登場したのが、現在使われている「グレゴリオ暦」。
グレゴリオ暦は、徐々に徐々に世界中に浸透して行き、現在ではほとんど全ての国がこのグレゴリオ暦を採用しています。
さて、ここまでは、過去の暦上で存在した2月30日を紹介しました。
しかし、ごく最近でも、2月30日が3回、特例として存在したのです。
1回目は、1712年のスウェーデン(当時スウェーデンに合併されていたフィンランドも一緒に)。
当時、ユリウス暦を使用していたスウェーデンは、グレゴリオ暦への変更を計画しました。
しかし、先ほども書いたように、この時、ユリウス暦は11日も日付が進んでいました。
この「進んでいた」と言うのは、「グレゴリオ暦と比較して」進んでいた、と言う意味です。
つまり、グレゴリオ暦へ変更するためには、この11日ものズレを何とかして直さなければならなかったのです。
そこで、スウェーデンでは1700年から1740年までの40年間、閏年を無くし、このズレを消そうと考えました。
しかし、考え付いたは良い物の、2度目の閏年、1704年で、いきなり計画失敗。2月29日が存在してしまいました。
そして、1708年も、閏年になってしまいました。
このため、スウェーデンはどの国とも全く違う、スウェーデン独自暦を刻む国となってしまったのです。
そこで、スウェーデンは、とりあえず1度ユリウス暦に戻す事を考えました。
ユリウス暦との差は2日。ですので、1712年、スウェーデンは2月に2日追加し、2月30日を設けました。
スウェーデン独自暦1712年2月30日。ユリウス暦では2月29日で、グレゴリオ暦では3月11日。
次の日、スウェーデンは3月1日、ユリウス暦も3月1日で、スウェーデンはユリウス暦に戻る事が出来ました。
結局、スウェーデンのグレゴリオ暦への変更は、1753年に行われました。
2回目と3回目は、旧ソ連。
旧ソ連では、1929年に改暦が行われました。
その暦では、全ての月は30日となり、余った5日(閏年なら6日)は、どの月にも属さない日として、年末にプラスされたのです。
この暦どおり、その次の1930年と1931年は、実際に2月30日が使用されました。
しかし、理由は不明ですが、1932年に、2月は元の日数へと戻ったのでした。
ところで、冒頭で、「現在でも」2月30日が使用されてると述べました。
実は、イランとエチオピアでは、現在でも2月30日が使用されているのです。
イランの「イラン暦(ペルシア暦、イラン太陽暦とも)」では、春分の日に1年が始まり、前半の半年が毎月31日、残り半年が毎月30日となっています。
そして、ラストの2月は、基本的に29日までで、閏年には、30日までとなるのです。
ちなみにこのイラン暦では、新年は深夜0時ではなく、太陽が春分点を通過した瞬間に始まります。
そして、もう1つのエチオピアでは、「エチオピア暦」が使用されています。
これは、全ての月が30日で、あまった5日(閏年は6日)を13番目の月としているのです。
ちなみにエチオピア暦の1年の始まりは、グレゴリオ暦での9月11日ごろ。
太陽暦は、1年の長ささえ決まってしまえば、あとはどこでどう区切ろうとその国の自由です。
そのため、このような特殊な暦も誕生する、と言うわけです。

地球温暖化は、自然現象!?
現在(2005年2月)地球規模で問題になっている現象、「地球温暖化」。
ニュースなどで日々言われているように、これは、地球の平均気温がどんどん上がっていく現象です。
よく、これは、
「人間が多くの化石燃料(石油や石炭など)を使い、温室効果ガス(二酸化炭素など)を大量に放出している事が原因だ」
と言われます。
要するに、「地球温暖化は人間の責任」と言う事なのですが…。
実は、「地球温暖化と人間は無関係」と言う説もあるのです。
「説もある」と言うよりは、「関係しているのかしていないのか、実はよくわかっていない」と言うのが、正しい言い方です。
グリーンランドや南極には、たくさんの氷床があります。
これらの氷床を調べると、氷床が形成された時の気温や、大気中の二酸化炭素濃度がわかるのです(理由不明。もしも知っていたら、どなたか教えてください)。
その氷床の分析によれば、18世紀…つまり、化石燃料を使い始めた産業革命以後、確かに大気中の二酸化炭素濃度は増え続けています。
しかし、このような二酸化炭素濃度増加現象は、過去に何度も繰り返し起こっている事なのです。
例えば、紀元前6000年の縄文時代。人類はやっとこさ火の起こし方を知った頃でしょう。
しかし、当時、「縄文海進」と呼ばれる海水面の上昇現象が起こりました。
この時は、現在よりも4メートルも海水面が高かったと見積もられています。
この値は、現在の最新シミュレーションがはじき出した、今世紀末までに上昇する海水面よりも、はるかに大きい値です。
さらにもっと過去の時代。
恐竜の生息していた中生代白亜紀(1億4300万年前〜6500万年前)には、現在よりも300メートルも海水面が高くなっていました。
「氷期・間氷期」と言う物があります。
「氷期」とは、いわゆる氷河時代の事で、地球全体が、猛烈に寒い時期を言います。
そして、「間氷期(かんぴょうき)」とは、上の氷期と氷期の間の時期の事で、地球全体が暖かい時期の事を言います。
最近の研究で、この氷期・間氷期の周期が、10万年周期のものから、数年、数十年周期の物まで、様々なものがあると言う事がわかってきました。
この氷期・間氷期は、人間活動とは全く無縁で、太陽活動など、自然現象の影響によって繰り返し起こる現象なのです。
現在は、地球がこの氷期から間氷期へ向かっている途中なのではないか。
もしかしたら、産業革命が起こって化石燃料が使用され始めた時期と、地球がこの間氷期に入る時期が、偶然一致しただけなのではないか。
そう言う風にも、考えられているのです。
しかし、化石燃料を使い過ぎれば、地球全体の二酸化炭素濃度が少しずつでも増えていくのはゆるぎない事実。
もしかしたら、「このまま使い続けると温暖化になり絶滅するから、今のうちに直しておけ」と言う、神の啓示なのかもしれません(?)。

石じゃない「化石」もある!
「化石」と言うと、真っ先に連想するのが「恐竜の化石」。他にも、アンモナイトや三葉虫の化石や、「生きた化石」などと言う言葉も思い出せます。
これらの化石は、「生きた化石」はともかく、全てほとんど骨だけ。地中に埋もれ、石化してしまっています。
しかし、実は、「石じゃない化石」もあるのです。
それは1799年、シベリアの凍土の中から発見されました。
発見されたのは、およそ4万年前のマンモス。
凍土…つまり、氷の大地の中に埋もれていたため、その死体は新鮮そのもの。
氷を溶かすと赤い血が流れ始め、残っていた肉に犬がかぶりついたほどです。
毛や皮膚も、ほとんど腐ることなく、ほぼ完全な形で残っていました。
さらに、そのマンモスを解剖すると、胃の中にはマンモスが食べた物まで残っていたのです。
このように、どう考えても「石」ではないにも関わらず、これは立派な「化石」なのです。
何故なら、「化石」とは、地質時代に生息していた生物や、その生物たちの生活の痕跡の事を言うからです。
「地質時代」と言うのは、「地球誕生から人類の歴史開始」までの時代の事。
つまり、地球誕生からほぼ現在までの時代の事を「地質時代」と呼んでいると考えて、間違いありません。
そして、この4万年前のマンモスも、「地質時代に生息していた生物」に含まれるため、
シベリアの凍土から発見されたこのマンモスも、立派な「化石」と呼べる、と言うわけなのです。

「大きな古時計」の「おじいさん」は90歳!
有名な童謡「大きな古時計」。この歌詞の中には、「おじいさん」が登場します。
その中で、おじいさんは100歳、と言う事になっています。
おじいさんが生まれた日に買って来た時計が、「100年休まずにチクタクチクタク」動いている事からそれがわかります。
ところでこの童謡は、元々アメリカの民謡「Grandfather’s Clock」を和訳したもの。
しかし、この曲の歌詞を見てみると、時計が動いていたのは100年ではないのです。
元の歌詞の当該部分には、
「Ninety years without slumbering」
直訳すると、「90年間休み無しに」とあります。
つまり、元の歌詞では時計が動いていたのは100年ではなく90年。
従って、おじいさんも100歳ではなく90歳になるのです。
この歌詞を訳したのは保富康午(やすとみやすご)と言う方なのですが、この人によると、歌いやすさを追求した結果、こうなったそうです。
歌ってみればわかりますが、確かに「90年休まずに」ではとても歌いにくい曲になります。
ちなみにこの大時計。初めは棚に置かれようとしていたようで、英語の歌詞の最初の部分には
「My grandfather's clock was too tall for the shelf
 So it stood ninety years on the floor」
直訳で「わたしのおじいさんの時計は、棚には大きすぎた。そこで、それは90年間、床にあった」とあります。
また、日本語の「大きなのっぽの古時計」と言う表現からの印象と違い、この時計は意外に小さく、
「It was taller by half than the old man himself」
直訳すると「それはおじいさん自身の半分だけの高さだった」つまり、「おじいさんの半分の背丈」しかありません。
(2008/5/22追記)と思いましたが、「おじいさんの半分だけ高かった」という訳の方がよさそうです(と言うツッコミを受けました)。
おじいさんの身長よりは高かったようです。

歌いやすさを優先させたためなのでしょうが、英語の歌詞と日本語の歌詞には、少しずれがあるようです。
参考文献;LYRICS Download.com 530.000+ lyrics in the biggest community in the world【http://www.lyricsdownload.com/】

フランケンシュタインの正体
「フランケンシュタイン」と聞くと、何を想像するでしょうか?
顔中にある縫い目。不気味な容貌。異常に高い身長。頭に釘が刺さっていたり、目が片方無かったり…。
と、色んな怪物の想像図が出てくる事でしょう。
そして当然、この「フランケンシュタイン」とは、この怪物の名前…。
と思いきや、実は「フランケンシュタイン」と言うのは、この怪物ではなく、この怪物を生み出した科学者の名前。
1818年に出版された小説『フランケンシュタイン』。作者はイギリスの女流作家、メアリー・シェリーです。
この小説を読むと、確かに、「フランケンシュタイン」と言うのは、怪物ではなく、小説の主人公である科学者の名前になっています。
しかし、1931年、この小説がアメリカのユニバーサル映画で初めて映画化された時、何を思ったか、怪物にフランケンシュタインと命名。
そしてこの映画が大ヒットしたおかげで、「フランケンシュタイン=怪物の名前」として定着してしまったのです。
ちなみに、小説『フランケンシュタイン』の原題は、「Frankenstein, or the Modern Prometheus」。
直訳すると、「フランケンシュタイン、すなわち現代のプロメテウス」。
プロメテウスとは、ギリシャ神話に登場する神様の1人で、粘土から人間を創ったとされる神です。
この小説は、だいたいこんなストーリー。
ヴィクター・フランケンシュタインは、死体を素材に人間を作り出すことに成功します。
その人造人間は、優れた体力と知性、そして人間の心を持っていましたが、非常に醜い容貌でした。
その容貌のため、人間には受け入れられず、彼はフランケンシュタインに、自分の伴侶(恋人)になる人造人間を作るように要求します。
しかし、フランケンシュタインはそれを拒否。すると、人造人間はフランケンシュタインの弟、友人、妻を殺害します。
フランケンシュタインが死ぬと、人造人間は、フランケンシュタインの遺体と共に、暗い、北極の海に消え、以後の行方は全くわからなくなる…。
と言うのが、小説『フランケンシュタイン』のストーリーなのです。
ホラーではありますが、人造人間の「自分は人間なのか? 怪物なのか?」と言う心の葛藤や悲しみを描いた物語でもあるのです。
ちなみに、「じゃぁ、この人造人間の名前は?」と聞きたいところですが、フランケンシュタイン博士は、この人造人間に名前をつけていません。
それが余計に、「フランケンシュタイン=怪物の名前」として定着させる要因になってしまったのです。

国旗の色は、赤じゃない!?
日本の国旗と言えば、ご存知「日の丸」。あの、白地に丸が描かれたアレですが…。
あの丸の色は、何色だと思いますか?
思わず「赤」と答えたくなりますが…「国旗及び国歌に関する法律」には、こうあります。
「日章 紅色」
そう、あの丸は、実は赤色ではなく紅色なのです。
赤色はですが、紅色はです。
見た目にはわずかな差ですが、法律上は赤ではなく紅なので、国旗を描く際、赤で書くと、それは日本の国旗ではなくなってしまいます。
この法律の第1条第2項には「日章旗の制式は、別記第一のとおりとする」とあり、「別記第一」には、他にも国旗に関する事が定められています。
まずは縦横比。縦の長さは、横の長さの3分の2、と決められています。
また、日章(丸)の直径は、縦の5分の3。丸の中心は、旗の中心です。
そして、旗は白地に紅色の丸、と定められているのです。
ただ、これには特例があって、附則の3には、
「日章旗の制式については、当分の間、別記第一の規定にかかわらず、寸法の割合について縦を横の十分の七とし、かつ、日章の中心の位置について旗の中心から旗竿側に横の長さの百分の一偏した位置とすることができる。」
とあります。
早い話が、「縦の長さは、横の長さの10分の7。丸の中心は横の長さの100分の1だけ、支柱側によってもよい」と言う事。
ただし、「当分の間」とあるように、いつかはこの特例がなくなる…かもしれません。
ちなみに、この法律が出来たのは、平成11年(1999年)8月13日。
それまで、実は国旗と国歌を厳密に定めた法律は無かったのです。
今度、国旗を描く機会があったら、法律通りの寸法で描いてみるのも、面白いかもしれません(?)。

春分・秋分の日も、昼夜の長さは同じではない!?
3月21日ごろは「春分の日」、9月23日ごろは「秋分の日」があります。
この日は、太陽が真東から昇り、真西に沈み、昼と夜の長さが同じになります。
理屈の上では、これはゆるぎない事実なのですが…。
実は、春分・秋分の日でも、昼夜の長さには差があり、毎年昼の方が若干長くなっているのです。
「昼夜同じ」と言う理屈をひっくり返してしまうのが、「定義」と言う名のヘ理屈。
「日の出」「日の入り」の定義が、この理屈を覆してしまうのです。
「日の出」とは、「太陽が、ほんの少しでも地平線から顔を出した瞬間」の事を言います。
そして、「日の入り」とは、「太陽が、完全に見えなくなった瞬間」の事をいいます。
そのため、太陽の長さ分だけ、昼の方が長くなってしまうのです。
また、空気には、光を屈折させてしまう性質があります。
ですので、実際には太陽が地平線の下にあるにも関わらず、地平線のところに太陽がある「ように見えてしまう」のです。
つまり、目で見る「日の出」は、計算上の「日の出」より早く、「日の入り」は遅くなるのです。
このようなズレも存在するため、昼と夜の長さに差が生まれてしまうのです。
例えば、1983年の秋分の日(東京)では、日の出から日の入りまで12時間9分。つまり、昼の方が18分長かったのです。
ただ、「太陽の中心が地平線から出た瞬間」を日の出、「沈んだ瞬間」を日の入りとし、空気の屈折を考えなければ、
春分・秋分の日、昼と夜の長さは理論上同じになりますので、ご安心を。

アメリカ独立記念日は、独立した日ではない!?
7月4日は、アメリカ合衆国の独立記念日(インディペンデンス・デイ)です。
その昔、イギリス人がアメリカに移り住み、生活を始めました。
その時はまだ、アメリカはイギリスの支配下にありましたが、アメリカとイギリスとの仲が次第に悪くなっていき、
ついに1775年4月、戦争を始めます。
それが「独立戦争」と言う戦争で、アメリカはこれに勝利し、晴れてイギリスから独立。「アメリカ合衆国」になったのです。
そして、それを記念したアメリカの祝日が、「独立記念日」なのですが…。
実は、独立記念日である7月4日は、まだ独立していなかったのです。
1776年。トマス・ジェファソンと言う人が、「独立宣言」と言うものを発表しました。
この日が、7月4日。独立記念日は、この日を祝しているのです。
しかし、ジェファソンが独立宣言を発表したのは、独立戦争の真っ只中。
戦争が終わったのは、1781年。先ほど書いたように、アメリカの勝利に終わりました。
そして1783年、パリ条約が結ばれ、アメリカは完全に(正式に)イギリスから独立したのです。
ちなみに、独立記念日のお祭りは、独立宣言発表の翌年、1777年から始まっています。
なお、完全に独立を果たしたパリ条約が結ばれた日はいつか、調べてみたところ、9月、としかわかりませんでした。
どなたか詳しく知っている方、教えてください。お願いいたします。

冷たくても「温泉」?
「温泉」と聞くと、湯気が立ち込め、硫黄(正確には、硫化水素〔硫黄と水素の化合物〕)の匂いがするイメージがあります。
漢字も「温かい泉」と書くぐらいで、当然温泉と言えば、お湯だけ…。
と、思いきや、実はそうでもないのです。
温泉法第2条第1項には、温泉の定義として、
「この法律で『温泉』とは、地中からゆう出する温水、鉱水及び水蒸気その他のガス(炭化水素を主成分とする天然ガスを除く。)で、別表に掲げる温度又は物質を有するものをいう。」
と書かれています。
噛み砕くと、「温泉とは、地下から湧き出した温水やガスの事。ただし、別表に書かれた温度以上か、別表に書かれた物質を含んだもの」と言う事です。
この条文で注目すべきは、「温度又は物質」と書かれている事。
つまり、温度が何度だろうが、特定の物質を含んでいれば、「温泉」と呼べるのです。
また、温泉と言えば硫黄(いおう)ですが、温泉ならば硫黄が絶対入っている、とは限りません。
温度が何度だろうが、特定の物質を含んでいれば「温泉」ですが、この文章を逆に読み取ると、
「何も含んでいなくても、温度が一定以上ならば温泉と呼べる」ともなるのです。
その温度は、別表の一によると、「摂氏二十五度以上」。
摂氏(せっし)とは、日本では日常的に使われる温度単位で、「℃」の事です。
そしてこの温度は、地面から湧き出した時の温度。この時25度未満だと、後でいくら沸かしても、温泉にはなりません。
ですので、地面から湧き出した時、25度以上ならば、何も含んでなくても、温泉と呼べてしまうのです。
以上をまとめると、
「地面から湧き出した時の温度が、25度以上ならば、ただの水でも温泉。
 25度未満でも、別表に書かれた物質を1つ以上含んでいれば、温泉」
と言うわけです。
もちろん、条文にあるとおり、「温泉」だからと言って、液体が出てくる必要はありません。
目に見えないガスが噴出したとしても、ガスの成分によっては「温泉」になります。
なお、一覧の雑学の部屋に、『温泉法 別表の二』を載せておきました。
あわせてご利用ください。
参考文献;温泉雑学メモ【http://www2b.biglobe.ne.jp/~kondo/onsen/html/zatugaku.htm】
(H.KONDO'S B級情報ファイル 内)

アインシュタインがノーベル賞をもらった理由とは?
アルベルト・アインシュタイン(アルバート・アインシュタイン、とも)は、ユダヤ人の有名な理論物理学者です。
彼は生涯でいくつか功績を残しましたが、そのうちの1つが、有名な「相対性理論(相対論)」と言うものです。
1905年に「特殊相対性理論」を、そして1915年に「一般相対性理論」を発表しました。
また、彼は1921年、ノーベル物理学賞を受賞しています。
アインシュタインの残した功績で一番有名なものが「相対論」であり、ノーベル賞を受賞したのが相対論発表直後であるため、
よく「アインシュタインは相対論の功績で、ノーベル賞を受賞した」と勘違いされますが、実は違います。
アインシュタインが受賞したのは、相対論とは全く関係の無い、「光量子仮説」と言う物です。
光量子仮説とは、一言で言うと「光とは粒と波の性質を持った物である」と言う説です。
1887年まで、いくつかの実験結果から「光は波である」と考えられていました。
ところが1887年、ドイツの物理学者ヘルツが「光電効果」と言う現象を発見。
光電効果は「光が波である」とすると説明できず、「光が粒である」とすると楽に説明できました。
そこで、「光は波なのか、粒なのか!?」と言う議論が沸き起こったのです。
この議論を解決したのがアインシュタインが1905年に発表した「光量子仮説」。
先ほど述べたように、「光とは粒と波の性質を持った物である」と言う説です。
で、アインシュタインは光量子仮説によってノーベル物理学賞を受賞したのですが、
この話には、(真偽は定かではありませんが)ちょっとした裏話があります。
相対性理論は、当時の物理学の常識を大きく覆した理論でした。
そのため、ノーベル賞選考委員は、本当は「相対性理論の発見」でノーベル物理学賞を彼に与えたかったのですが…
実は、当時の科学技術では、相対論が本当に正しいのかどうか、検証する事ができなかったのです。
また、その内容が非常に難解で、ノーベル賞選考委員たちに理解することもできませんでした。
権威あるノーベル賞を、そんな曖昧な物に与えるわけには行きません。
しかし、どうしてもノーベル賞を与えたい選考委員たちは、アインシュタインの他の功績をムリヤリ探し始めました。
そして発見したのが、特殊相対論と同年に発表された、光量子仮説。
「こりゃ良いや」とばかりに、ノーベル賞選考委員たちはこれに飛びつき、見事アインシュタインにノーベル物理学賞を与える事ができたのです。
ちなみに、相対論が本当に正しいかどうかは現在も検証が続けられています。
ただ、今(2006年)のところ、相対論を否定する材料は、何一つ出てきておりませんので、ご安心を。

「これは『金閣寺』ではありません」
修学旅行の定番、京都。見所の1つに、「金閣寺」があります。実際に行った方も多いでしょう。
「金閣寺」と言えばもちろん、金ぴかの2階建てで、屋根の上には鳥(鳳凰)の像が飾られている、あの建物です。
ところで(今現在もあるかどうかわかりませんが)、「金閣寺」の前に「これは『金閣寺』ではありません」と言う看板が立っているのをご存知でしょうか。
そして、そこに書かれている通り、あの金ぴかの建物は、実は「金閣寺」ではないのです。
では、「金閣寺」は、いったいどこにあるのでしょう…?
それでは試しに、「金閣寺」に行ってみましょう。
「金閣寺」は、京都府北区にあります(普段、一般的に「金閣寺」と呼んでいる金ぴかの建物も、ここにあります)。
金ぴかの建物を見るために、金ぴかの建物がある敷地に入っていきましょう。
「総門」と呼ばれる、秋には美しい紅葉に彩られる門をくぐり抜けます。
すると、そこはもう「金閣寺」です。
どういうことか? こう言う事です。
一般的に「金閣寺」と呼ばれている金ぴかの建物は、正式には「金閣」と呼びます。
あの金ぴかの建物は、お寺ではなく、「舎利殿(しゃりでん)」と言う建物なのです。
そして、その「金閣」は、「金閣寺」の中にあるのです。
「金閣寺」とは、「金閣」を含め、目の前の池や、不動堂、巌下水(がんかすい)、竜門滝などがある、あの敷地全体の事を言うのです。
先ほど、「金閣は舎利殿だ」と書きました。舎利殿とは、舎利(お釈迦様の遺骨)を安置する建物の事です。
金閣や、その他のお堂や鳥居などが全て合わさり、初めて寺院としての効果を持つ範囲の事を「金閣寺」と呼ぶのです。
ちなみに、「金閣寺」と言うのは正式名称ではありません。
正式名称は「鹿苑寺(ろくおんじ)」と言うのですが、金閣が余りに有名なため、「金閣寺」と呼ばれるようになりました。
参考文献;相国寺・金閣寺・銀閣寺【http://www.shokoku-ji.or.jp/index.html】

お酒を飲むと体が温かく……?
「お酒を飲むと体が温まる」と言われています。
が、これ。勘違い…とは言えませんが、若干語弊があります。
お酒を飲むと体が温かくなるように感じるのは、血管が拡張するからです。
血液は体中に栄養や酸素などを運ぶと同時に、熱も運んでいます。
血管が拡張すると運ばれる熱も増え、体温が上昇します。
ところが、体の表面に近い血管も拡張しているため、そこから大量の熱が体外に放出されていまいます。
熱が外に出て行くわけですから、当然体は冷えてしまいます。
よって、お酒を飲むと体が温まったように感じますが、放熱が増えるためにどんどん冷やされていくのです。
もし寒いところで温かくなろうとしてお酒を飲むと、逆に体温を下げることになってしまい危険ですのでご注意を。
ちなみに、お酒を飲むと顔が赤くなりますが、あれも顔の下の血管が拡張しているため。
赤いのは血液の色なのです。

地動説は間違っていた?
「天動説と地動説」の話は有名です。
その昔、人々は「地球は宇宙の中心で、太陽が地球の周りを回っている」と考えていました。これを「天動説」と言います。
対して、「地球が太陽の周りを回っている」と言うのが「地動説」。言うまでもなく、本当は地動説です。
地動説を最初に唱えた、とされているのはアリスタルコスと言う紀元前300年頃の天文学者。
地動説を唱えた有名どころは、ニコラス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、ガリレオ・ガリレイの3人でしょう。
特にガリレイは地動説を唱えた事で「聖書に反する」と教会から弾圧された事で有名で、「それでも地球は回っている」と言うセリフも有名です。
コペルニクスやケプラーも、程度は違いますが批判や無視を受けた人々です(コペルニクスは死の直前に地動説を発表したので、彼自身は特に批判を受けていませんが)。
この天動説と地動説の話は、しばしば「正しい者が不当に批判を受ける」と言う事の喩えに使われますが…。
現代科学からすると、この3名の説は実は間違っているのです。
そもそも彼らが非難されたのは、宗教的な理由ももちろんありますが、科学的なちゃんとした理由もありました。
まずコペルニクスですが、彼が著した地動説のモデルの概略は、
「太陽を中心に、全ての惑星が完全な円運動を行っている」
というもの。
ところが現代の天文学によれば、惑星は完全な円運動は行っておらず、わずかにつぶれた楕円形をしています。
そのため、コペルニクスの計算と実際の観測結果は一致せず、観測と一致しない理論は間違っている、というわけでコペルニクスの地動説は受け入れられなかったのです。
それから数十年後。ケプラーが師匠ティコ・ブラーエの残した観測記録を元に惑星の軌道を正確に計算し、惑星が楕円軌道を描いている事を突き止めました。
そのおかげで、地動説と観測結果が一致しました。
さらにガリレオが、天動説では起こりえない金星の満ち欠けや、木星の衛星を発見し、地動説を支持・主張しました。
ところが、彼ら2人に解けない謎が登場したのです。
天動説は「地球が宇宙の中心だ」とする面もあります。このように考えたのにはわけがあります。
地球が丸い事は紀元前からわかっていました。地球が丸い、と言う事がわかると次に浮かんでくる疑問は、
「では何故地球の反対側にいる人は、宇宙の彼方に落ちていかないのか?」
ということです。
これを解決する理論として登場したのが、「全ての物質は宇宙の中心に向かう性質がある」というもの。
すなわち、地球は宇宙の中心であり、故に地球の反対側の人も宇宙の彼方に落ちていかないのだ、と言う考えです。
もしガリレオとケプラーが言うように地球が宇宙の中心ではないのだとしたら、「では何故地球の反対側にいる人は、宇宙の彼方に落ちていかないのか?」と言う疑問が生じます。
実はガリレオとケプラーは、この疑問に答えられなかったのです。
その謎を解いたのが、有名なアイザック・ニュートン。
彼は、これまた有名な「リンゴが落ちるのを目撃する」という体験から万有引力の法則を発見。
「全ての物質は宇宙の中心に向かう性質がある」と言う理論を打ち砕き、「万有引力によって、地球の反対側にいる人は落ちていかないのだ!」と説明しました。
これにより地動説に疑問はなくなり、徐々に広く受け入れられるようになっていったのです。
参考文献;ビックバン宇宙論 上  サイモン・シン/著

中国の女性は、チャイナドレスを着ない!?
中華料理店に行くと、チャイナドレスを身にまとったウェイトレスが現れます。
中国では、女性の正装はチャイナドレス。だから、チャイナドレスのウェイトレスが出てくるわけです。
ならば当然、中国の女性は、全員チャイナドレスを持っている…と思いきや、実際にはそうでもないようです。
例えば、日本料理屋へ行くと、着物を身にまとったウェイトレスが現れます。
しかし、だからと言って、日本の女性が全員着物を持っているわけではありません。
それと同じ理由で、中国の女性も、チャイナドレスを持っているわけではないのです。
また、「着物」と言うと、日本では「古臭い」と言うイメージがあります。
中国も同じで、「チャイナドレス」と言うと、「古臭い」と言うイメージを持っているのです。
そのため、「ダサいチャイナドレスなんて持たない!」と言う女性が、現在増えている、と言うわけです。

七夕は7月7日ではない?
七夕、と言えばもちろん7月7日です。ところがこれは、「旧暦」での話。
旧暦とは明治6年以前に使用されていた暦の事で、「太陽太陰暦(又は太陰太陽暦)」の1つ、「天保暦」と呼ばれているものです。
暦には大きく3つの種類があります。
太陽の動きを利用した「太陽暦」、月の満ち欠けを利用した「太陰暦」、そして両方を加味した「太陽太陰暦」です。
現在我々が使っているのは太陽暦の1つ、グレゴリオ暦ですが、明治6年までは天保暦を使っていました。
太陽太陰暦では、「月が新月になる日」を月の始まりと考え、各月の1日としました。
その翌日を2日、その次の日を3日…と考え、次の新月の日がやってくると、それが次の月の1日となります。
ところが、新月から新月までは平均して約29.5日。
これが12ヶ月だと約354日であり、太陽暦の1年より約11日短いため、そのままでは徐々に季節とずれていきます。
そこで太陽太陰暦ではこのずれがひと月分になると閏月を入れてずれを修正しました。
よく「今日は旧暦では何月何日」と言う話を聞きますが、たいていその日付は1ヶ月ほどずれています。
それは、太陽太陰暦の1年が太陽暦のそれより11日短いからなのです。
また11日短い事から、旧暦での日付が同じでも、現行の暦では違う日になる事もしばしばあります。
さて、七夕に話を戻します。
七夕は7月7日ですが、それは旧暦の話。
では現行の暦ではそれは何日になるのでしょうか。
現在、日本では公式な旧暦の換算は行われておりません。
そのため国立天文台ですら、現行の暦での正確な七夕の日にちを言えません。
そこで国立天文台では、2001年、旧暦における七夕の日(「伝統的な七夕の日」)を次のように定義しました。
「24節気の処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間を含む日)よりも前で、
処暑に最も近い朔(さく=新月)の時刻を含む日から数えて7日目」
太陽黄経(たいようこうけい)とは、太陽が春分の日にある位置を0度とし、そこから東回りに360度測ったものです。
春分の日にある位置(春分点、と言います)を0度とすると、夏至点が90度、秋分点が180度、冬至点が270度となります。
つまり処暑とは、「太陽が春分点から東に150度ずれた位置を通る日」の事です。
それよりも以前にある、処暑に最も近い新月の日から数えて7日目。それが七夕になります。
処暑の1つ前の節気は「立秋(りっしゅう)」。
これはニュースなどでも「本日は立秋です」などと言う事があり、処暑は立秋の2週間ほどあとになります。
ですので、だいたい立秋の1〜2週間後ごろが、旧暦での七夕の目安になります(必ずしも正確ではありません)。
なお国立天文台によると、2012年までの七夕の日付は、下記の通りです。
2007年  8月19日 日曜日
2008年  8月07日 木曜日
2009年  8月26日 水曜日
2010年  8月16日 月曜日
2011年  8月06日 土曜日
2012年  8月24日 金曜日
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